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[No.14614] 機内食 投稿者:男爵  投稿日:2011/05/23(Mon) 20:05
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機内食
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おなじみの
機内食です。

2年前 広州へ行ったとき
香港、マカオも回りました。


[No.14615] 電気ポッド 投稿者:男爵  投稿日:2011/05/23(Mon) 20:09
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電気ポッド
画像サイズ: 816×612 (53kB)
ホテルの
電気湯沸機

コンセントの形の違い
当然、想定内ですが。


[No.14616] ホテルの朝食 投稿者:男爵  投稿日:2011/05/24(Tue) 05:19
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ホテルの朝食
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ホテルの朝食

このあと
英語バージョンを。


[No.14617] Re: ホテルの朝食 投稿者:男爵  投稿日:2011/05/24(Tue) 05:20
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Re: ホテルの朝食
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> ホテルの朝食
>
> このあと
> 英語バージョンを。

こうなります。


[No.14618] テレビ 投稿者:男爵  投稿日:2011/05/24(Tue) 21:04
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テレビ
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部屋のテレビをつけたら
懐かしい場面が。

西安の阿倍仲麻呂の碑です。

これを見にはじめて西安に行ったのは
1989年秋。


[No.14619] 西安の阿倍仲麻呂の碑 投稿者:男爵  投稿日:2011/05/25(Wed) 05:36
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西安の阿倍仲麻呂の碑
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> 西安の阿倍仲麻呂の碑です。
>
> これを見にはじめて西安に行ったのは
> 1989年秋。

子どもが
ここで「かくれんぼ」をしていました。
イー・アル・サン・スー


[No.14627] 阿倍仲麻呂の謎 投稿者:男爵  投稿日:2011/05/27(Fri) 17:08
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> > 西安の阿倍仲麻呂の碑です。

阿倍仲麻呂ははじめ朝臣仲満と称したが、のちに朝(晁)衡(ちょうこう)と
改名しました。  晁衡とも朝衡ともいったのです。

752年に衛尉少卿に昇進しますが、このとき藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐します。
すでに在唐35年の仲麻呂は清河らとともに翌年帰国することになります。
この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠みました。

しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流されるのです。
このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだといいます。

幸いにも安南(現ベトナム)に漂着した仲麻呂一行は長安に帰ることができたが
二度と日本の土を踏めなかったのでした。

藤原清河の遣唐使一行は阿倍仲麻呂とともに
密かに鑑真も乗船させたのですが
鑑真の船は無事日本に着いたのでした。

さて
阿倍仲麻呂つまり晁衡あるいは朝衡の名前ですが
どうして朝の字がついたのか
これにこだわる学者がいます。

詳しくはここにあります。
http://www.aurora-net.or.jp/doshin/silkroad/hakuyoju/NO24/index.html
これは札幌の新聞社のホームページなのですが
シルクロード展が終わっても
なかなか役に立つからと私が頼んで
残してもらったものです。


[No.14628] Re: 阿倍仲麻呂の謎 投稿者:男爵  投稿日:2011/05/27(Fri) 17:24
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> 阿倍仲麻呂つまり晁衡あるいは朝衡の名前ですが
> どうして朝の字がついたのか
> これにこだわる学者がいます。

この研究者によると以下のようになります。
 姓の「朝」は、ふつう「朝臣」からきたものだとされている。
 当時の中国の習慣では、外国人はその出身国の国名を名字にしているが、日本人だけがそうしない。
 その理由としては、ひとつには、そのころ国名が、ちょうど倭(わ)から日本へと移行する時期だったからだろう。

 だがもうひとつ私が考えるのは、彼はむしろ、「日出ずる(つまり朝日の)国、日本」だからこそ、「朝」と名乗ったのではないかという可能性だ。

 ところが実は、日出ずるという名を持つ国は、わが日本よりはるかに昔から、東アジアにはもうひとつ存在していた。
 しかもその国は、まさに「朝」の字そのものを、国名に用いていたのだ。

 ☆   ☆   ☆

この説によれば
阿倍仲麻呂は日本人ではなく、朝鮮人だったのではないか
ということですが
はたして、そのころは朝鮮という国名はあったのでしょうか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE
これによれば
「朝鮮」の名はすでに紀元前4世紀頃からあった。
史記や管子に「朝鮮」という地名に関する記述がある。
朝鮮王朝(李氏朝鮮)の官選地理書「東國輿地勝覧」によると中国人が朝光鮮麗の地と呼んだためといわれ、さらに、東方(=朝)の鮮卑に由来すると言う説もある。
しかし
百済、新羅、高句麗、日本の資料には「朝鮮」という呼び方はないのです。
朝鮮は、中国側の呼び方で、初めは遼東の地名であった。
ということで
阿倍仲麻呂は朝鮮の人ではなく日本人だということになりそうです。