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[No.766]
Re: 大正人の責任。
投稿者:マーチャン
投稿日:2008/10/22(Wed) 12:08
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不虻さん
> その後、食糧不足はエロア、ガリレオ援助に依る食糧輸入で、インフレは、預金払い出し制限,新円発行、隠匿物資の買い上げ、財産調査、そして所謂ドッジラインにより、生産停滞は傾斜生産方式、最後は昭和25年に勃発した朝鮮戦争の「特需」により解決していき、昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と言われたのは御承知の通りです。
貴重なお話、ありがとうございました。
私など、当時まだ小学生で詳しい事情は何もわかりませんでした。
ただ、小学生も「エロア、ガリレオ」「ララ物資」などという言葉だけは存じています。
エロア、ガリレオ援助は、有料だったのでしょうか。
後にアメリカに返済したという話も聞きましたが、その辺が良くわかりません。
日系人の方のご協力があっていただけたのに、それは公表されていなかったという話も聞きましたが本当だったのでしょうか。
戦争中の話は分からないことばかりですが、占領下での出来事にも「よく分からないこと」が多いですね。
[No.765]
Re: 大正人の責任。
投稿者:不虻
投稿日:2008/10/22(Wed) 11:35
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千葉の小猿さん
大正期の不虻ですが、レスが遅くなって済みません。
終戦から昭和24,5年までの日本の大問題は、一千万人の餓死者が出るかもと言われた食糧危機問題とややもすれば超インフレに移行するかも知れないインフレ処理の問題並びにエネルギー、原材料不足でにっちもさっちも行かなくなっている鉱工業生産停滞の問題でした。
こんな状況下で、有澤広巳・東大教授等の提唱したのが「傾斜生産方式」でした。これによりあらゆる物資の割り当てや資金供給などを石炭、鉄鋼、化学肥料に集中しました。
当時私は商工省に勤務、と言っても新米そのもので何も知りませんでしたが、昭和22年に名古屋商工局に転勤したとき、化学肥料担当を命じられ、四日市に幾つかあった硫安工場に日参し、増産のお手伝いをしたことを微かに覚えています。
その後、食糧不足はエロア、ガリレオ援助に依る食糧輸入で、インフレは、預金払い出し制限,新円発行、隠匿物資の買い上げ、財産調査、そして所謂ドッジラインにより、生産停滞は傾斜生産方式、最後は昭和25年に勃発した朝鮮戦争の「特需」により解決していき、昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と言われたのは御承知の通りです。
長々と御免なさい。
[No.764]
三始会。
投稿者:変蝠林(1917-)
投稿日:2008/10/22(Wed) 06:44
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昭和十年に卒業した我々の同窓会の名称です。
之は第三十四回卒業の我々の為に漢文の教師
が下記に由来して与えて呉れたものです。
早梅已動一枝新
黄鳥未鳴三始春
仰看天晴陽欲旺
凡愚九思自精純。
七絶です。
戦前の中学校は最近の大学を超えて居ました。
変蝠林(1917-)
[No.763]
Re: おお!懐かしのゲルト。
投稿者:唐辛子 紋次郎
投稿日:2008/10/20(Mon) 22:09
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変蝠林(1917-)さん、みなさん、こんばんは。
> 就職して神戸支店に配属された時、
> 三宮神社前のトーアロードのカメラ店で買った本格カメラ。
こんなページもありやした。(^_-)-☆このカメラ、小さいけどよく写ったようですね。それから、両側面に「GELTO」という字が、入っていたそうですね。
http://72.14.235.104/search?q=cache:6q4EAF8sL7oJ:homepage1.nifty.com/nekocame/camera/gelto.htm+%E6%98%94%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%80%80%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%88&hl=ja&ct=clnk&cd=1&gl=jp
[No.762]
おお!懐かしのゲルト。
投稿者:変蝠林(1917-)
投稿日:2008/10/20(Mon) 08:58
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>http://www.geocities.jp/yastsuji/gelto.html
就職して神戸支店に配属された時、
三宮神社前のトーアロードのカメラ店で買った本格カメラ。
戦時中焼夷弾爆撃で全焼した静岡市。
亡き家内が乳飲子を古い乳母車に乗せて臨済寺迄田圃の中
を逃げ延びた時、カメラは持ったがネガは持てなかった。
此の懐かしきカメラ、名古屋で瀬戸物の花瓶と交換された。
其の後何処でも中古が見当たらなかった。
花瓶だけは何故か現在も残って居るのに。
変蝠林(1917-)
[No.761]
Re: 大正人の責任。
投稿者:変蝠林(1917-)
投稿日:2008/10/20(Mon) 06:44
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不虻さん 此方こそ御無沙汰お詫びせねば。
> 私は昭和20年9月20日に復員、暫く郷里で呆然と日を送っていまし
> たが、12月に虎ノ門にある勤め先に復帰しました。目黒区月光町で焼け
> 残った友人の家に泊めて貰い、そこから通いました。
私の復員は昭和21年3月27日でしたが幸い家族も全員無事で静岡駅まで
出迎えて貰えました。不思議な幸運は続きまして殆どの退役社員が宿舎無き
為に馘首だった時代、設立直後の静岡支店に復職出来ました。
当時の収入、東芝オアシスに残って居た記録参考に下記致しませう。
題名:昭和21年8月分給料明細書。
給料 ¥130.00
家族手当 ¥100.00
居残早出手当 ¥ 44.00
臨時物価手当 ¥520.00
皆勤賞 ¥ 20.00
食事手当 ¥110.00
休日出勤手当 ¥ 0.00
交通費補助 ¥ 20.00
合計 ¥944.00
*差引額
分類所得税 ¥116.63
*差引支給額
現金 ¥500.00
封鎖小切手 ¥327.37
此の年大阪出張の砌、純綿白ソックス一足¥500.00で買い求めました。
誠に不思議な時代でした。
御同役感慨や如何。 変蝠林(T/06) 。
[No.760]
Re: 大正人の責任。
投稿者:不虻
投稿日:2008/10/19(Sun) 18:11
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変蝠林さん 御無沙汰しています。
> 此処で沈黙して居ては、却って無責任を免れ得ません。
貴兄に次ぐような大正人でありながら、なかなか書き込みも出来ず、
申し訳ありません。
仰るとおり、終戦直後の東京の凄まじい生活など、もう今の若い人には
想像もつかないでしょう。
私は昭和20年9月20日に復員、暫く郷里で呆然と日を送っていまし
たが、12月に虎ノ門にある勤め先に復帰しました。目黒区月光町で焼け
残った友人の家に泊めて貰い、そこから通いました。
先ずは乗り物。窓硝子が割れてしまって寒風が容赦なく吹き込む省線
(今のJAのこと)で目黒から新橋までぎゅうぎゅう詰めで。
新橋駅周辺は食べ物屋の闇市。烏賊の丸煮などぷんぷん良い臭いを
させているが、一匹十円、またラッキーストライクやキャメルなどの
アメリカ煙草が一個30円、しかし月給150円ではとても手が出ない。
毎晩、勤めから戻ると、先ず虱取り。下着から4匹見つけ出して
ゾッとする。
渋谷駅など、浮浪の戦災孤児が倒れている。物憂げに身体のどの部分も
動かさず、ただ空虚な瞳がじっと地面を見つめている。
電車、街、勤め先、凡てが阿鼻叫喚である。怒声、悲鳴、叫喚、耳に
入って来るのは惟。倦怠、不潔、社会の不公平、雑踏、怒気、焦燥、卑屈
不倫、怠惰…………目に入り、身に感ずるこれであった。
そして遂に私は疥癬に罹り、空しく郷里へ帰りました。
[No.759]
Re: 大正人の責任。
投稿者:千葉の小猿
投稿日:2008/10/17(Fri) 11:18
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大正期の方々へ レス遅くなりましたが
> 戦後の我武者羅な復興労務の中で得た経験等を是非共。
これはぜひ残していただきたい内容です。
聞いた話ですが「傾斜生産方式」ということで食料とエネルギー(肥料と石炭に)に極めて少ない資源を集中したと聞いています。
私の年代は昭和30年代半ばからですが「傾斜生産」の延長上にあると思います。
敗戦処理からこの時代のことは今後もし同じような危機があっても教訓として重要です。
ぜひお願いします。
千葉の小猿
[No.758]
大正人の責任。
投稿者:変蝠林(1917-)
投稿日:2008/10/10(Fri) 13:34
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大正人のみなさま:
此の折角の部屋がやや閑散と見受けられます。
明治の父母や日露戦争の勇士に囲まれて育った所為か
大東亜戦争の惨めな惨敗に変な責任を感じてるのでは?
此処で沈黙して居ては、却って無責任を免れ得ません。
戦後の我武者羅な復興労務の中で得た経験等を是非共。
資格無しの 変蝠林(1917-)
[No.757]
Re: 種痘
投稿者:Pan
投稿日:2008/10/06(Mon) 14:14
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みなさん、こんにちは
> 種痘はよく憶えていませんが
> 「予防注射」のことはよく憶えています。
> こういうものは、だいたい小学校でやったような気がします。
種痘は専用のメスに液を付けて、十字型に浅く切ってからそのメスの腹でテンテンと液を叩くように付けていましたね。 ちょっと痛かったです。
マントーの注射が発明されましたね。 後に言うツベルクリン反応の事でしょうか。
赤いマルが大きいか小さいかで結核菌に対する抗体反応を計ったようです。
> 校医さんの前に一列に並ばされ、腕をまくって待ちますと、女の先生が順に二の腕をアルコール綿で消毒します。
その頃、アルコールを浸ませた脱脂綿も注射器も一つで何人かに使っていました。
今だったら大変な事ですね。
注射器には1アンプル数人分を吸い込ませ、4,5人だったと思うのですが少しずつ注射していました。 浅い皮下注射の時はプクッと豆のように膨れあがりました。
> 校医さんは、年配の恐そうな方でした。
> 一年坊主なんか、お顔を拝見しただけで恐がっていました。
泣き叫んで逃げ回るのもいましたよ。腕力で掴まれて注射されていました。(*_*)
> 終わってみれば、何のことはないのですがーーー。
殺されそうに叫んでいた子供も、泣きじゃくりながら、どう納めるか困っているようでした。
***** Pan *****
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