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[No.489] 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/03/28(Fri) 22:33
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 この歌劇団誕生に大きな役割を果たしたのが、阪急電鉄の専務(当時)有名な小林一三だと聞く。明治の終わりに何もなかった田舎町、宝塚に、あらたに温泉場を作り、元号の変わった翌年の大正元年には、パラダイスという名の娯楽場までオープンさせた、とある。

 お客は連日押しかけ大盛況だったが、室内プールだけが不評。ここを改造して、ここでイヴェントをやった。その幕間にやったのが、少女たちによる唱歌だった。これが、後のワールドフェイマスな「ベルバラ」の舞台にまで発展するとは、誰も予測しなかった、と。

 あっしはこの方面には疎いが、大昔のスターには春日野八千代(大正4年生まれ)だの、音羽信子(大正13年生まれ)、淡島千景(大正13年生まれ)、月丘夢路(大正11年生まれ)などがいたとか。この方面にお詳しい、ありませんか?

  http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/sumireno_hana_sakukoro.htm


[No.490] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/03/29(Sat) 10:54
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唐辛子紋次郎さん  こんにちは

大正人ではありませんが(^_-)

>  あっしはこの方面には疎いが、大昔のスターには春日野八千代(大正4年生まれ)だの、音羽信子(大正13年生まれ)、淡島千景(大正13年生まれ)、月丘夢路(大正11年生まれ)などがいたとか。この方面にお詳しい、ありませんか?

4〜5才のころ(昭和11〜12)兄と一緒に母に連れられてよく見に行った記憶があり
ます。子供心にも覚えているのは天津乙女、春日野八千代、霧立のぼる、深緑夏代、越路吹雪などの名前です

淡島千景、久慈あさみ、新珠三千代、月丘夢路などは戦後に映画スターになってからスクリーンで見ました

宝塚大劇場は戦時中は海軍に接収され宝塚海軍航空隊の予科練生の宿舎でした。兄(昭和5年生)も予科練に志願してそこで訓練を受けていました

そんな関係で宝塚歌劇と予科練は縁があり「すみれの花」と「荒鷲の歌」は一緒に
歌われるころがあるそうです。宝塚大劇場に通じる「花の道」には元予科練生の寄贈した植樹があります


              さんらく亭@甲子園


[No.491] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/03/29(Sat) 11:28
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  さんらく亭さん、みなさん、こんにちは。

> 4〜5才のころ(昭和11〜12)兄と一緒に母に連れられてよく見に行った記憶があり
> ます。子供心にも覚えているのは天津乙女、春日野八千代、霧立のぼる、深緑夏代、越路吹雪などの名前です

 深緑夏代や、越路吹雪は、シャンソン歌手としても超一流ですね。(^_-)-☆

> 淡島千景、久慈あさみ、新珠三千代、月丘夢路などは戦後に映画スターになってからスクリーンで見ました
>
> 宝塚大劇場は戦時中は海軍に接収され宝塚海軍航空隊の予科練生の宿舎でした。兄(昭和5年生)も予科練に志願してそこで訓練を受けていました

 超硬派の予科練と宝塚が、親戚というのは、こら、おもろい。

> そんな関係で宝塚歌劇と予科練は縁があり「すみれの花」と「荒鷲の歌」は一緒に
> 歌われるころがあるそうです。宝塚大劇場に通じる「花の道」には元予科練生の寄贈した植樹があります

 予科練生の植樹、へ〜そんな紋が、あるんですか?へ〜〜。(@_@;)知りませんでしたねぇ。あっしは今まで、宝塚といったら「おんなだけの世界」と思っていましたが、男も観にいったんですねぇ。むかしは若い女の子はみんな、スターのブロマイドを、自分の部屋にいっぱいしまい込んで、宝物のように大事にしていたようでうすね。

 あっしには、とても理解できない世界でしたが…。ところで、あの歌の「すみれ」はほんとうは「リラ」なんすて?


[No.493] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/03/29(Sat) 12:30
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唐辛子紋次郎さん  変蝠林さん


気になってググったらこんな記事がありました

http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/yoka-takara.htm

私もそこまでは知りませんでした



      さんらく亭@甲子園


[No.522] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:小机  投稿日:2008/04/02(Wed) 16:47
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 唐辛子 紋次郎さん、みなさん、こんにちは。

>あっしには、とても理解できない世界でしたが…。ところで、あの歌の「すみれ」はほんとうは「リラ」なんですって?

 そうらしいですね。リラだと「ニワトコの咲ぁくころ〜」で、さまにならないから宝塚の監督みたいな人が植え替えたんでしょう。
 パリではやる前はドイツで「白いフリーダがまた咲けば、・・」とかで流行ってたようです。

昔のままでは皆さんの好みではないでしょうから、ディスコ・サウンド風のを聞いてください。

Wenn der weisse Flieder wieder blueht
http://jp.youtube.com/watch?v=IKeguU4cRZI&feature=related
Musik & Text: Franz Doelle / Fritz Rotter


[No.523] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/04/03(Thu) 09:37
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  小机 さん、みなさん、お早うござます。(^_-)-☆

> 昔のままでは皆さんの好みではないでしょうから、ディスコ・サウンド風のを聞いてください。
>
> Wenn der weisse Flieder wieder blueht
> http://jp.youtube.com/watch?v=IKeguU4cRZI&feature=related
> Musik & Text: Franz Doelle / Fritz Rotter

Ganz gut!


[No.492] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/03/29(Sat) 11:53
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唐辛子紋次郎さん さんらく亭さん  こんにちは

大正人ですが(^_-)

宝塚大劇場は就職直後に神戸支店勤務下命、早速脚を運びました。
あの頃は電車を降りて櫻土手を往くと紫羽織の生徒達とサテンで同席。

合宿所の先輩から淡島千景に小便掛けられたなんて話しが・・・・
彼女が重役さんの御嬢さんであって・・・

                               変蝠林(1917-)  
 


[No.494] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/03/29(Sat) 13:10
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   変蝠林(1917&大正6年-)さん 、さんらく亭さん、みなさん、今日は。(^_-)-☆

> 大正人ですが(^_-)
>
> 宝塚大劇場は就職直後に神戸支店勤務下命、早速脚を運びました。
> あの頃は電車を降りて櫻土手を往くと紫羽織の生徒達とサテンで同席。

 紫羽織、う〜ん、いいすねぇ。

> 合宿所の先輩から淡島千景に小便掛けられたなんて話しが・・・・
> 彼女が重役さんの御嬢さんであって・・・

先輩が淡島千景に求婚ですか?これもスゴイ。しかし、彼女ってそんなにいい家柄なんですか?先輩の〇〇さん、さぞかし残念だったでしょうね。  


[No.497] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/03/29(Sat) 15:06
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唐辛子 紋次郎さん、こんにちは。

皆さん、よく宝塚の事をご存じですね。私めは大阪で戦災にあい、丹波に疎開し、
そこから現役召集で海軍に行き、敗戦でまた丹波に帰り、その年の終わり頃に、
宝塚まで引き返してきまして、3,4年間、栄町通りという歌劇の劇場の近くに
住んでいました。

宝塚ではコネがあって毎月のように歌劇を見に行き、時には新国劇なども見に行き
ましたが、もう60年も前のことですから、ほとんど忘れています。あの時分は、
なんと言っても春日野八千代の時代で、彼女が舞台に立つとすごい拍手と声援で、
敗戦後の窮乏生活は、この宝塚大劇場の中ではどこへ行ったかと云う感じでした。

天津乙女は春日野よりも先輩で、貫禄がありましたね。私の印象深かったのは深緑
夏代のカルメンで、赤い薔薇をもてあそびつつ唄うハバネラはいまも印象に残って
います。

春日野のあとに出てきた越路吹雪の人気もなかなかのものでしたね。やはり宝塚は
男役に人気が集中していたよう思います。


[No.498] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/03/29(Sat) 15:41
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  伸さん、みなさん、こんにちは。

> 皆さん、よく宝塚の事をご存じですね。私めは大阪で戦災にあい、丹波に疎開し、
> そこから現役召集で海軍に行き、敗戦でまた丹波に帰り、その年の終わり頃に、
> 宝塚まで引き返してきまして、3,4年間、栄町通りという歌劇の劇場の近くに
> 住んでいました。

 歌劇場のちかくですか、そりゃまたスゴイですね。(@_@;)

> 宝塚ではコネがあって毎月のように歌劇を見に行き、時には新国劇なども見に行き
> ましたが、もう60年も前のことですから、ほとんど忘れています。あの時分は、
> なんと言っても春日野八千代の時代で、彼女が舞台に立つとすごい拍手と声援で、
> 敗戦後の窮乏生活は、この宝塚大劇場の中ではどこへ行ったかと云う感じでした。

 春日野の人気は絶大だったんですね。(^_-)-☆

> 天津乙女は春日野よりも先輩で、貫禄がありましたね。私の印象深かったのは深緑
> 夏代のカルメンで、赤い薔薇をもてあそびつつ唄うハバネラはいまも印象に残って
> います。

 う〜ん、カルメンですか、赤いバラを口に咥えた姿はさぞ、かっこよかったでしょうねぇ。それにまた、あの唄はメロディーがいいですよ。蓮っ葉で、威勢のいいスペイン女が歌うには打ってつけですよ。

> 春日野のあとに出てきた越路吹雪の人気もなかなかのものでしたね。やはり宝塚は
> 男役に人気が集中していたよう思います。

 女の子も男役に憧れたんでしょうね。しかも、宝塚はニッポン独自の文化で、西洋には、ああいう、女だけで演じる歌劇ってのはないです紋ね。(^_-)-☆やっぱ、スゴイですよ。(^_-)-☆


[No.499] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:マーチャン  投稿日:2008/03/29(Sat) 20:06
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唐辛子 紋次郎さん、みなさん

>  この歌劇団誕生に大きな役割を果たしたのが、阪急電鉄の専務(当時)有名な小林一三だと聞く。明治の終わりに何もなかった田舎町、宝塚に、あらたに温泉場を作り、元号の変わった翌年の大正元年には、パラダイスという名の娯楽場までオープンさせた、とある。

 残念ながら「宝塚」へは行ったことがありません。

 ただ、学童疎開をしていたときに、宝塚のから慰問団が来てくださったのを憶えています。
 長野県の鹿教湯温泉でした。
 しかも、私たちの寮は「腸チフス」に汚染されて隔離されていたので見に行くことが出来なかったです。
 それは可哀想とわざわざ旅館の広間で我々のためだけに危険を冒して(感染する可能性がありましたから)上演してくださったのです。

 たしか「コルネビーユの鐘」「そら豆の煮えるまで」「愛国の花」だったと思います。
 一生、忘れられません。


[No.500] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:マーチャン  投稿日:2008/03/29(Sat) 20:16
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追伸です。

>  たしか「コルネビーユの鐘」「そら豆の煮えるまで」「愛国の花」だったと思います。

 この愛国の花は舞踊だったのですが、「愛国の花」をウェブサイトで調べますと

 昭和12年(1937年)にラジオの国民歌謡として作られ、昭和13年(1938年)4月20日、渡辺はま子の歌唱で日本コロムビアからレコード化された歌謡曲。福田正夫作詞、古関裕而作曲ーーーとあります。

 しかし、フィリピンでは、未だに、これを自国の民謡と思っている方が大勢おられるそうです。


[No.503] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:BUP  投稿日:2008/03/30(Sun) 09:34
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ご無沙汰してます。
>  しかし、フィリピンでは、未だに、これを自国の民謡と思っている方が大勢
フィリピンではどうか知りませんが、インドネシアでは、故老の方は・・。
当時、セレベス島 マカッサル中学では、故 藤山一郎さん(増永丈夫海軍嘱託ー少佐待遇)が現地の女子中学生に教えて、皆さん、歌ってました。
数十年後、昭和50年代にもメロディは残ってました。
歌詞も マシロキフジノ・・・ は覚えておりました。
  もうみんな十字架の下です。


[No.510] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:マーチャン  投稿日:2008/03/31(Mon) 08:00
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BUPさん

> >  しかし、フィリピンでは、未だに、これを自国の民謡と思っている方が大勢

> フィリピンではどうか知りませんが、インドネシアでは、故老の方は・・。
> 当時、セレベス島 マカッサル中学では、故 藤山一郎さん(増永丈夫海軍嘱託ー少佐待遇)が現地の女子中学生に教えて、皆さん、歌ってました。
> 数十年後、昭和50年代にもメロディは残ってました。
> 歌詞も マシロキフジノ・・・ は覚えておりました。
>   もうみんな十字架の下です。

 そうでしたか。「愛国の花」をインドネシアでも。

 フィリッピンでは、ギターに合わせて歌っていました。

 日本の若い世代にはこの歌を知らない人が多いのに、海外で歌い継がれているのですね。

 


[No.501] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/03/29(Sat) 21:56
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   マーチャン、みなさん、今晩は。

>  たしか「コルネビーユの鐘」「そら豆の煮えるまで」「愛国の花」だったと思います。
 
 むかし、疎開から帰った後、よく家の茶の間かなんかで、その芝居をやってみせて呉れて、こちとらは急拵えの観客席で、のんびり見物した記憶がある。とくに「そら豆の煮えるまで」というのは、芝居の中に、細かい煮方の所作までが入っていたような気がする。そら豆をうまく煮るには、こうしやしゃんせ、といったような。(^_-)-☆

 「コルネビーユの鐘」(Les Cloches de Corneville)というオペレッタも大ヒットしたらしく、浅草オペラの歴史にも出てくるようだ。

 これは、フランスのロベール・プランケットの作曲で、3幕4場。初演は1877年4月19日、パリのテアトル・デ・フォリー・ドゥラマティーク。その後、NYに渡り、アメリカンヴァージョンの「ノルマンディーの鐘」「コルネヴィーユの鐘」として上演された模様。

 いまは城を追われ漁師に身を落としているが、正当の権限を持つわかい城主が、いろいろあった末に、美女を后に迎え、目出度くコルネヴィーユ城の鐘が鳴って幕となる。


[No.502] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:マーチャン  投稿日:2008/03/30(Sun) 07:46
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唐辛子 紋次郎さん、みなさん
 
>  むかし、疎開から帰った後、よく家の茶の間かなんかで、その芝居をやってみせて呉れて、こちとらは急拵えの観客席で、のんびり見物した記憶がある。とくに「そら豆の煮えるまで」というのは、芝居の中に、細かい煮方の所作までが入っていたような気がする。そら豆をうまく煮るには、こうしやしゃんせ、といったような。(^_-)-☆
>
>  「コルネビーユの鐘」(Les Cloches de Corneville)というオペレッタも大ヒットしたらしく、浅草オペラの歴史にも出てくるようだ。
>
>  これは、フランスのロベール・プランケットの作曲で、3幕4場。初演は1877年4月19日、パリのテアトル・デ・フォリー・ドゥラマティーク。その後、NYに渡り、アメリカンヴァージョンの「ノルマンディーの鐘」「コルネヴィーユの鐘」として上演された模様。

 それにしても不思議なのはあの戦争中を、あの華やかな宝塚が、よく生き延びたいうことです。
 戦争末期を、あのように慰問に徹して過ごしたのがよかったのでしょうか。


[No.519] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/04/01(Tue) 18:18
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> 唐辛子 紋次郎さん、みなさん

きりんです。不思議なご縁で、今、私は元タカラジェンヌという70代の
方々と知り合いになりました。

何かの機会に、トークサロンなど、企画したいと思います。

皆様のお好きな方がおられたら、いいですね(^0^)v

きりん


[No.520] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/04/01(Tue) 20:58
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  きりん さん、みなさん、こんばんは。

> きりんです。不思議なご縁で、今、私は元タカラジェンヌという70代の
> 方々と知り合いになりました。

 もとTakarasienneとお知りあいたぁ、大した紋です。(@_@;)タカラヅカはなぜ、片仮名か。それは世界の宝塚だから、でしたよね。

> 何かの機会に、トークサロンなど、企画したいと思います。

 宝塚時代の華やかな思い出話を、当事者から肩のこらない場所で、じっくり聴くということにでもなれば、メロウの淑女連中も、大勢集まるのでは?

> 皆様のお好きな方がおられたら、いいですね(^0^)v

 淑女連のなかには、男役スターのブロマイドを夢中で集めた人も、結構お出でではないでしょうかね。あっしも、むかしは押入れに一杯しまっている人を間近かに見た記憶があります。いまでも残っていれば貴重品で、まさに文字通りの「宝の塚」かも。(^_-)-☆


[No.521] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/04/01(Tue) 21:36
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きりんさん

> きりんです。不思議なご縁で、今、私は元タカラジェンヌという70代の
> 方々と知り合いになりました。
>
> 何かの機会に、トークサロンなど、企画したいと思います。

 是非!

 Y−catが、ズカ志願を言いだして必死に止めた経験有り。

                                 変蝠林(1917-)

 


[No.524] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/04/04(Fri) 21:37
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変蝠林様

Y-CATさまの歌と踊りをぜひ、拝見したかったです!

元タカラジェンヌの方は、最近 神田の古書店で古い宝塚の写真集の中で
春日野八千代様が主役、ご本人は端役(^^)で写っていたそうです。

現在は、童話作家として活躍しておられ、お話も、とっても楽しい
おもしろい、すてきな方です。

変蝠林様のご近所で、企画します。
ぜひ、ご期待ください。

きりん


[No.525] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/04/05(Sat) 04:05
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きりん様

> 元タカラジェンヌの方は、最近 神田の古書店で古い宝塚の写真集の中で
> 春日野八千代様が主役、ご本人は端役(^^)で写っていたそうです。
> 現在は、童話作家として活躍しておられ、お話も、とっても楽しい
> おもしろい、すてきな方です。
> 変蝠林様のご近所で、企画します。
> ぜひ、ご期待ください。

 うれしい御話ですね。   是非。
 全国の旧き塚フアンを蒐める場所を探さなければ・・・・・・・・

                          変蝠林(1917-)


[No.541] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/04/09(Wed) 15:52
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大正の部屋「温故知新」を興味深く読ませて頂きました。其の中で 宝塚歌劇に関する記事が目に入りましたが私もこの歳をして 宝塚歌劇のフアンです。 孫娘が宝塚歌劇団の女性演出家になっておりますので毎年 宝塚、東京と5〜6回は出掛けます。未だまだ駆け出しですが宜しくお願いします


[No.542] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:マーチャン  投稿日:2008/04/09(Wed) 17:35
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satyanさん

 ようこそ、大正の部屋へお越しくださいました。

> 大正の部屋「温故知新」を興味深く読ませて頂きました。其の中で 宝塚歌劇に関する記事が目に入りましたが私もこの歳をして 宝塚歌劇のフアンです。 孫娘が宝塚歌劇団の女性演出家になっておりますので毎年 宝塚、東京と5〜6回は出掛けます。未だまだ駆け出しですが宜しくお願いします

 わあ、宝塚ファンでいらっしゃるのですね。

 その上、お孫さんが演出家でいらっしゃるなんてーーー素晴らしいです。

 satyanさんが若かりし頃は、どんなスターがお気に入りでいらっしゃったのですか。 


[No.543] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:季寿(きよし)  投稿日:2008/04/09(Wed) 21:43
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satyanさん

初めましてm(__)m

お孫さんが宝塚歌劇団の女性演出家とは、凄く優秀な方なんでしょうね。
もちろん美貌の持ち主なんでしょうね(^_^)

余談ですが、私の友達の娘さんも宝塚に憧れていて、応募をしたそうですが、
身長が少し足りずに駄目だったそうです。
学業も優秀で、背もすらりとして、顔立ちも人並み以上ですが…
今は、結婚し、地元の総合病院の看護師として働いています。

    季寿


[No.549] Re: 宝塚少女歌劇(スミレの花咲く頃) 投稿者:   投稿日:2008/04/14(Mon) 19:33
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私の若い頃は戦時中であり、貧しさの為 国立無線電信講習所(現電通大)に学んでおり娯楽といえば せいぜい映画くらいのもので宝塚とは全く縁が無く 卒業と同時に航空会社に入社してシンガポールに赴任してしまいました。考えて見れば本当に情けない青春時代でした。 


[No.511] 福神漬け 投稿者:   投稿日:2008/03/31(Mon) 09:12
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>  この歌劇団誕生に大きな役割を果たしたのが、阪急電鉄の専務(当時)有名な小林一三だと聞く。明治の終わりに何もなかった田舎町、宝塚に、あらたに温泉場を作り、元号の変わった翌年の大正元年には、パラダイスという名の娯楽場までオープンさせた、とある。

 話題がそれますが、そして かなり有名な話なので
ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが

 阪急百貨店は昭和初期に開店 日本最初のターミナルデパート
おりしも昭和大恐慌のまっただなか 市中の食堂では
ライスのみを注文する客が多く 商売にならないとて
「ライスだけのお客お断り」の張り紙を各店が・・・

 このとき小林一三
今は貧乏でもその内結婚し子供もつくるだろう
将来のお客は大事にしなさい と 
阪急百貨店の食堂では 張り紙を取り除かせ
ライスのみ大歓迎どころか
タップリ福神漬けをつけて提供したとのことです

 電車の車内放送で
「毎度ご乗車有難うございます」と 最初に言わせたのは
小林一三であると言われています


[No.513] Re: 福神漬け 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/03/31(Mon) 12:01
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 みなさん

> 話題がそれますが、そして かなり有名な話なので
> ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが

> このとき小林一三
> 今は貧乏でもその内結婚し子供もつくるだろう
> 将来のお客は大事にしなさい と 
> 阪急百貨店の食堂では 張り紙を取り除かせ
> ライスのみ大歓迎どころか
> タップリ福神漬けをつけて提供したとのことです

 神戸店着任直後「ソース・ライス」の話しを聞き、六甲道から態態
 電車賃掛けて梅田に行き、阪急百貨店八階の大食堂を訪ね一皿五銭
 のライスを注文卓上のソースを掛けて試食の経験が現在もアリアリ。

 半世紀以上も昔の三大強国の頃の御話。

 ナショナル松下にせよ阪急小林にせよ昔の日本人は偉かったですね。

                         変蝠林(1917-)


[No.551] 宝塚の話 投稿者:   投稿日:2008/04/14(Mon) 22:12
[関連記事URL:http://blog.drecom.jp/maruko-haiku

宝塚の話が盛り上がっていますね。私は大正生まれではありませんが、甲稜中学時代に
学校から姉妹3人、宝塚へ入った生徒がいて、とても目だっていました。
私は淀かおるさんが好きでした。寿美花代さんのご子息が婚約しましたが、本当は3人兄弟なんですよ。一人は家政婦が事件を起こして風呂桶で死なせたなんて事件もありました。もう昔のことですが、高島忠雄氏も鬱になっていますが、華やかな夫婦の姿が懐かしいですね。西宮や宝塚は文化の香りの高い街でしたし、青春時代は西宮に住んでいましたし、今も同窓生がたくさんいます。関西に行くと、家がぎっしり詰まって昔の思かげがありません。