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[No.613] 馬賊の唄。 投稿者:   投稿日:2008/05/09(Fri) 16:55
[関連記事

>http://nob.internet.ne.jp/note/note_23.html

を開けると少年の日の想い出が次から次へと・・・・

各々方、御暇の折に御ゆっくりとどうぞ。

                    変蝠林(1917-)


[No.614] Re: 馬賊の唄。 投稿者:   投稿日:2008/05/09(Fri) 17:05
[関連記事

>http://www.0550895671.com/byoutou/byou17.htm

前記に続く・・・・・
                    変蝠林(1917-)


[No.637] Re: 馬賊の唄。 投稿者:瀬里恵  投稿日:2008/05/30(Fri) 14:48
[関連記事URL:http://homepage2.nifty.com/Avenue-Serie/

変蝠林さん…。

瀬里恵が大牟田工業学校のころ、馬賊の歌のパロディが流行っていました。
隣市の荒尾に「宮崎滔天」と言う支那浪人がいて 馬賊の歌を作曲したと
云われています。

http://8.health-life.net/~susa26/natumero/taisyo/bazokunouta.html

♪♪大工を出てから十余年 今じゃ満州の大馬賊
  ○○○○○○から 繰り出す手下は五万人♪♪

♪♪大工ょ出てから十余年 今じゃ亀ン谷の藪医者で
  ○○○○○○○○ 殺した患者が五万人♪♪

何分にも60年以上も前の事で記憶が曖昧です。


  http://fine.ap.teacup.com/serie-brog/
          瀬里恵


[No.639] Re: 馬賊の唄。 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/05/30(Fri) 18:44
[関連記事

瀬里恵さん

有難う

> http://8.health-life.net/~susa26/natumero/taisyo/bazokunouta.html

 これを探して居たのでした。
「宮崎滔天」が隣町とは流石九州、良い環境で育てられましたね。
 大正拾弐/参年頃の環境は正に此の雰囲気でした。

 少年倶楽部の敵中横断参百里が仮想に思えぬ時代でした。

                           変蝠林(1917-)


[No.640] Re: 馬賊の唄。 投稿者:grue  投稿日:2008/05/31(Sat) 16:25
[関連記事

変蝠林さん、瀬里恵さん、

> 「宮崎滔天」が隣町とは流石九州、良い環境で育てられましたね。
>  大正拾弐/参年頃の環境は正に此の雰囲気でした。

「メロウ伝承館」に馬賊の唄を載せました。当時の若い日本人に与えた
影響を垣間見ることができます。どこか鼓舞するものがあったんでしょ
うね。

http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=thread&topic_id=580&forum=13&post_id=2354#2354


[No.641] Re: 馬賊の唄。 投稿者:変蝠林(1917-)   投稿日:2008/06/01(Sun) 00:50
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grueさん、

> http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?viewmode=thread&topic_id=580&forum=13&post_id=2354#2354

之は正に「メロウ伝承館」に貫禄を与えて呉れる絶章です。
有難う御座いました。

                         変蝠林(1917-)


[No.644] Re: 馬賊の唄。 投稿者:瀬里恵  投稿日:2008/06/02(Mon) 20:13
[関連記事URL:http://homepage2.nifty.com/Avenue-Serie/

変蝠林さん、grueさん、今晩は…。

荒尾市の少し先の玉名郡長洲町という処に、戦時中
海軍の兵曹長だった年上の友人が居て、よく自転車
を漕いで遊びに行ったものです。

その時、いつも荒尾市の幹道を通るのですが、その
途中に孫文記念館という建物があって、宮崎滔天が
日本に亡命した孫文のために 提供した居館跡だと
言われていました。

あれから40余年が過ぎましたが 多分今もあると
思います 。


           瀬里恵


[No.645] Re: 馬賊の唄。 投稿者:   投稿日:2008/06/03(Tue) 04:44
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瀬里恵さん

> その時、いつも荒尾市の幹道を通るのですが、その
> 途中に孫文記念館という建物があって、宮崎滔天が
> 日本に亡命した孫文のために 提供した居館跡だと
> 言われていました。

 孫文こそ清を倒し中国を興した祖、天安門の毛沢東
 の看板を外し孫文像に代えた時に初めて世界の人々
 がCHINAではなくてCHUNGKOUと呼んで呉れるで
 せうに。

                        変蝠林(1917-)