[No.994]
Re: 想い出話
投稿者:
投稿日:2009/04/28(Tue) 13:09
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satyan768 さん・・・
> 私はマレー半島西方の山中で敗戦を知り、南下してジョホール州のクルアンで検問を受け、無蓋貨車でシンガポールに着き、倉庫の軒下で一夜を明かし、赤道直下の無人島
> 「レンパン島」にて10か月の抑留生活を経験しました。
運命いろいろですねぇ。
私の場合:
暴露侵攻にて上海近郊の大倉鎮で非常呼集駆足で昆山駅迄。
待機の貨物車にて南京駅で昼の飯上げ。陛下の御言葉有り
と聞いたが、揚子江を渡り更に北上。途中八路の襲撃数回。
為に、前車は山海関を越えたのに我が列車は天津駅で下車。
敗戦後、蒋 介石の懇請であの年末まで天津警備の完全軍装。
全廠完備の天津のこと、山の如き糧秣廠から米砂糖菓子煙草
が連日山の如く配給、吸いきれぬ煙草が垣根越しに高粱酒に
化け、酒と煙草は今でも免疫になって仕舞いました。
唯、LST乗船の日、中村姓の兵が呼び止められて朝鮮人の
取調べ官が机上に靴の侭、ウイスキーを呷りながらの取調べ。
直立不動の姿勢十数分の間は生死の分れ目、緊張しました。
釈放されて漸くLSTの船底に数日、長崎南風崎に上陸し
全身真っ白けで山越え、三日後に大枚300円を頂戴して
帰還列車に乗車、窓越しに買った蜜柑が一個十円也に吃驚。
静岡駅に下車したら家族全員が出迎えて居るのに判らぬ様。
拾壱貫九百の半病人が拾六貫で現れ様とは無理も無き次第。
当時帰還兵は殆ど解雇の住宅事情、偶々静岡支店開設の折。
直ちに静岡店勤務の辞令が定年迄楽々勤務の僥倖に繋がる。
誰に感謝すべきか?
変蝠林(1917-)