あっしの家のちかくに、昔の殿様のお庭がある。およそ1万坪の広さがあるといわれている。あっしなど、広い地所の家をみると、あれだけの庭があれば、毎日が一段と楽しくなるのではないかと思う。あさ早く下駄を突っかけて庭へ出て、邸内をゆっくり散歩でもすればカンタンに気分転換が出来る。羨ましい限りだとは思うが、あっしのような身分では、そのような庭の持主には到底なれそうにない。
そこでジショはジショでも、辞書の方なら割とカンタンに持主になれるのではと思いついて、一時ジショをやたらと買い集めたことがある。ジショの持主が地主なら、あっしだってレッキとしたジヌシだ、と胸を張った。(-_-;)
しかし、辞書と云うものはただ所持しているとか、しょっちゅう引いているだけではダメだそうだ。(-_-;)小林英夫編「私の辞書」☆にラブレーなどの名訳で知られる渡辺一夫さんがそう書いて居られる。氏はパスカルの「パンセ」の中にでてくるabetirという語について、わたしなら「愚かにする」とは決して訳さない、と述べられている。ちなみに割と新しい手元の仏和でしらべてみると、氏の言葉通りの「…を愚かにする」と書いてあったので、何でも、本に書いてあるとおり信じ込んでしまうあっしは、非常に驚いた。(@_@;)
☆昭和49年だからもう、36年も前に出た本だ。
まともな辞書の他、ふざけたものもケッコウある。いつかネットを探索していたら、世界中の挨拶をあつめた辞書があった。またイアタリア人で日本の刀剣用語だけを集めたものも見かけた。「私の辞書」で河盛好蔵氏が披露されている辞書もなかなかに面白い。そのうちでも、露伴の『当流人名辞書』は普通名詞として使われている氏名を353も集めたもので、それによれば、三四郎というのは三味線のことだ、と。
作家の作る辞書と云うのはほかにもあって、かのフランスはフローベルの「紋切り型辞典」はあまりにも有名。数例を引用すると、『勘定書』 つねに「高すぎる」。『禁欲主義』 不可能事。先般のカトリック司教の児童にたいする性的虐待にこれを思う。『片言』 国籍のいかんを問わず、外人と話すにあたっては片言を用うべし。以下略。『サーカスの道化役者』 子どものときから体じゅう、関節がはずれている。また、アンドレ・プレヴォーの「楽天家用小辞典」には『ビフテキ』 食べられるチューインガム。『あくび』 ひとりでいる時にあくびをすつのは自己自身に対する礼節の欠如である。←ちげえねえ。ユーモリストのノクチュエルとなると、更に辛辣だ。『相互理解』 人間はたがいに言葉をかわし合わないときほど理解しあうことはめったにない。
この本の編者、小林英夫氏の文も、一部引用するのが礼儀であろう。だれでも知っているモルダウなどの作曲家スメタナの名はいったい何に由来するのだろうか。氏は語る。それにはまず東欧の古い昔話を知らなくてはならない。魔女がミルクを盗むとき、蝶々の姿になるという。そのクリームのチェコ語がスメタナで、これをドイツ語が借用したのがシュメッテン。これがのちにリンクをともない、シュメッターリンク☆となり、蝶を表すドイツ語になったとは、それこそ、チョウ不思議といわなければならない。(@_@;)
なお同書にはこのほかにも、こうしたアンビリバボーな話が満載されているので、ぜひ一度手に取って一読されるよう、お勧めする次第である。(^_-)-☆
☆ Schmettenlingにならず、Schmetterlingになったのは、同音反復を避けたためだと解説があった。
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