だれしも青春時代には、ひとには恥ずかしくて話せないが自分にとっては貴重な初恋の想い出があるものだ。
なかでも、ツルゲーネフの想い出はダントツにいい、とあっしは思う。というのはこれが若い頃のあっしの愛読書だったからだ。
新潮文庫の中でもとくべつ薄い本になると思うが、この本を見ただけで、あっしには、あの頃の甘酸っぱい、すこし苦味もまじった思い出が、今でもあざやかによみがえって来る。
しかも、訳は日本有数の名訳者として知られる神西清氏だから、なおのことである。
16歳のうぶな「私」が、偶然となりの別荘へ越してきた5歳年上のジナイーダ、といっても一応「公爵夫人令嬢」だが、これに、いいように遊ばれてしまう話だが、じっさい彼は、どんな眼にあってもいったん彼女の前に出ると思うがままに操られてしまい、自分の意思を失ったも同然のでくの坊のような状態になってしまうのだ。
ジーノチカ、彼女は何時の間にか、まわりに小さいながらも総勢7人の自分のサロンをつくってしまい、そこで女王然としてふるまう。そうして、崇拝者たちに次々いろいろな遊びを、提供する。
「私」は最初からジーノチカの従僕のような地位に甘んじていたが、ある日一遍に足もとをすくわれるような事件が起こる。こともあろうに、「私」の父親とこの不実な娘との不倫が投書によってとつぜん発覚し、そのことで母と父が大喧嘩をしたというのだ。これはフランス語でなされたらしいが、小間使いの中にこの暗号の分かるものがいて、ケッキョク召使どもにもすべて分かってしまう。
ツルゲーネフは、ほかにも山場を作っていて、歳月が流れ父も死に「私」も大学を終え、偶然あったサロン仲間からジナイーだの消息を聞かされる。彼女はすでに人妻になっており、「私」の住むマスクヴァに来ているらしかった。ぜひ逢いたいと思ったが、運命のイタヅラで果たせず、やっとやり繰りがついて訪ねてみると、「私」の思い人は何ということか、産後の肥立ちが悪く4日前にこの世を去ったという。
そうして、この小説の冒頭にあるように、「私」もいまは初老と云う年頃にもなるだろうか、仲間の寄り合いでこの物語をし、ただひたすら、静かにこの、掛け替えのない想い出に浸るばかりである。
* これを読んでいると、日常の会話にフランス語をまぜたり、フランスの新聞を読んだりする当時の貴族や、地主などの上流階級の様子も分かって面白い。「私」もジナイーダにかかっては、ムッシュー・ヴォルデマール(もとのロシア語読みではヴラジーミル)にされてしまう。
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