書き込みがないので、古い文章ですが引っ張り出しました。 20年も前に書いたものです。お読みいただけたら幸いです。
谷若葉
女ばかりあやめの旅や尾瀬ケ原 女性だけで尾瀬ケ原へ行った。少女の昔に戻って、わいわい、がやがや実に楽しい 山登り(のつもり)になった。
尾瀬との初めての出会いは30年ほど前になる。今のようにツアーなるものなどな く、自分で計画を立て山小屋の手配をし、時間の管理、食料の準備、地図も手作りを 持った。 今も山を歩く若者はいるのだろうと思うが、娯楽の少なかった私たちの時代の比で はないだろう。
その手作りの地図を広げて歩くコースをなぞっていたのを、大阪のテレビ局に取材 されたのは列車を待つ新宿の地下道だった。ライトが明るくたかれ、二、三度やらさ れた。 まだテレビが白黒で珍しいころで、自分が映るのをうれしく思ったが、「東京では 放映されません」と言われた。 よき青春の一ページとして、胸の奥にある。
鷺草の飛び立つ構へ風のなか 鷺草を私はこのときまで知らなかった。見たことはあっても、目に止まらなかった のかと思う。この日の尾瀬に咲く鷺草はすばらしく、緑一面の中で純白の姿を風に震 わせて、今にも飛び立つ構えを見せている様は可憐だった。その小さな、かわいい鷺 草と向い合った私はいっしょに小さな世界に入り込んだような心地がした。 その後見つけた街の鉢の中の鷺草には、尾瀬の感激はない。
美男にておはす大仏端午の日 どこの大仏様を見ても、私には美男に見える。そして、どっしりとしていて、いか にも男らしい。その上、優しさも表われていて、ますます男らしくしていると思うの である。
たまたま端午の日に、鎌倉の大仏様を見に行った。「美しい眉の下に、わずかに見 開かれた穏やかな半眼。均整のとれた体にまつわる流麗な衣紋・・・。これだけ大き くても威圧感や気味の悪さが一つも感じられない仏像は珍しい。」と永井路子の『鎌 倉の寺』に書かれている。その美しい大仏様に見ほれながら、世のお父さん、お母さ んも自分の子を男らしくと願い、端午の日に鯉のぼりを泳がせ、強い男の人形を飾っ て祝うのかと、その心を思った。
乗り継ぎてまた麦秋の旅となる どこへ出たときか覚えがない。とにかく昔のことだったから。汽車の窓から見えた のは稲のような気もするが、どこまでも青く青く続き、それは大海原のようにも感じ られた。小さな小さなホームで単線の小さな車両に乗り換えたが、とことこ走るその 車窓には、またも麦畑が一面に広がっていた。その単線の線路は麦に埋まって見えな いほどで、電車はかきわけかきわけ進むように思えた。どこへ行ったときなのか、な にが目的だったのか記憶にない。ただただ、麦畑が続いていた。
友の振る手のしらじらと谷若葉 初めてのメンバーで丹沢へ行った。朝から雨の寒い日であった。5人の予定がふた りは来ない。山を登るのに雨だからとすっぽかすなんて動議に反する、行こう行こう、 なんて言いながら決行した。
やはり雨のせいか、山道でも小屋でもほとんど人に会わず、3人だけの時が多かっ た。「この道でいいのかしら。」「ちょっとおかしいのでは。」「危ないからこの辺 りで戻ろうか。」などと言いながら歩いているとき、小柄な彼女は健脚ぶりを発揮し て先を見に行ってくれた。雨に煙る若葉の中で「だいじょうぶよ。」というように振 る手が印象に残った。
だが、その彼女はもういない。去年の年が押し迫った日、プールの中で人と衝突し、 上がってからすぐ意識不明になり、一週間後に亡くなった。プールの日の前日、体操 教室で会ったが、相変わらずの活発さを見せていた。小さな体で歩き、踊り、泳ぎ、 みごとな人であった。悔いなく生きた人生ではなかったかと思われる彼女。私もそう 生きたいと願ってはいるが……。
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