今日は68回目の終戦記念日でしょうか。そんなこことで、古い記録が思い出され 出かける前にと、あわてて打ち込んでいます。 20時まで、障害者の解除、明日は夏祭りのビヤガーデンの売り子、こんな平和を 感謝しています。 書きなぐりで、読み返す技官もなく、間違えがあったらごめんなさい。
母の故郷の新潟で、電線に今でいうアルミ箔を細くしたような物がたくさん絡まって いて、それを取りのぞくおとなたちと、怖いものの遠巻きにしていた子どもたち。 聞いて忘れてしまったのかどうか、あれは何だったのでしょうか。たしか飛行機から 落された物でした。
その後ラジオの前に集まったと思うものの定かではありませんが、戦争が終わったの だと言われても、私には何だかわからなかったというのが実感でした。 もうあれから46回目の8月15日。
私にとっての戦争とは、父が母が、祖母が亡くなったということです。直接的には 関係ありませんが、あの戦争がなかったらと思わずにはいられません。 父母も、私たち姉弟も犠牲者、それに3人の孫を育てた祖母もです。
空襲の日、池上の山へ逃げて、遠くが燃える光景を、寒さにではなく震えながら見た ことや、明け方たどり着いた家がごうごうと赤い火柱となっていて、くずれる瞬間 だったことは、今でははっきりと覚えています。
終戦の翌年亡くなったは母は、おいしい物が好きなぜいたくな人で、白いごはんと お刺身がないと生きて行けなかったと祖母にきいたことがあります。そんな母は 疎開先の田舎で、いつも茹で栗を懐に入れて歩いていました。それは、村いちばんの おいしい柿のなる家の子どもに柿と交換してもらったり、あの家のさつま芋はおい しいと聞くと、子どもに頼んでは持ってきてもらって交換するためでした。
東京に帰ってからはますます食べ物に不自由したようですが、えびがに(と呼んで いた)を、近所の腕白坊主たちに取ってきてもらっては茹でて、集まった子どもたち と楽しそうに食べていた母の姿が忍ばれます。それらが母の精一杯のぜいたくなので した。
今の日本では考えられませんが、戦争のために苦しんでいる国の人々もいます。 46年前の地球にではなく、この豊かな時代のなかにです。戦争とはほんとうに 悲しいものだと思いますしては。いけないものだと思います。 夢にあふ焼くる家並や終戦日 飽食といふ字を引かせ終戦日
8月15日まで、あと3日、朝から曇っています。西日の当たらないうちにと思い、 ワープロで原稿を書いています。 外は蝉時雨、ほんとうに平和のひととき。終わったらシャワーを浴びて横浜へ買い物 に出るつもりにしています。 こんなぜいたくいいのでしょうか。亡き人たちにこの平和を見せてあげたかったと 手を合わせました。
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