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[No.6736] 国なき民クルド人 投稿者:GRUE  投稿日:2014/09/09(Tue) 18:17
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国なき民クルド人
画像サイズ: 720×480 (90kB)
クルドという言葉を初めて聞いたのははるか昔である。国を持てず苦労して
いる民だと聞いた。しかし、それはすぐに頭の隅の奥の方に入ってしまって、
思い出すこともなくそれから何年も過ぎた。

その言葉を再び耳にしたのは、いつのことか、湾岸戦争(1991年)の頃では
ないだろうか。イラクの大統領サダム・フセインがクルド人に化学兵器を使用し
たというのだ。それはひどいというので、次第にそのことがあちこちで噂される
ようになった。

そうなると、ちゃんと調べもせずに、長い間放置していたのが申し訳ないような
悪いような気になってきた。

おおよそのことはすぐに分かった。約3000万人くらいいて国を持たない民と
しては最大だ、20世紀初めオスマン帝国崩壊時に列強にトルコ、イラク、イラン、
シリアなどの国にバラバラにされて生きてきたこと、自分の国を持つことを悲願
としてきたこと、トルコに1000万以上、イラク、イランにそれぞれ500万
くらいいることなどが分かって来る。つまりこの4つの国の国境近くに住んで
いるということである。

人種的には、アラブ系でもトルコ系でもなく、インド・ヨーロッパ語族に属し、
イラン人に近いことなどがわかる。宗教はスンニ(ナ)派が多数、しかし、特殊
な宗派もあるようだ。

しかし、このような文字の情報だけでは、クルド人のイメージがまるでわかない。
クルドという言葉の響きのせいか、そうではないのに、アラブの仲間のような気
さえしてならなかった。

色々と知って以来、クルド人に是非現地で会ってみたいものだと思うようになっ
てきた。

それがやっと実現したのは、2011年の10月のことである。思いがけない時に
イラン(ペルシャ)旅行が実現し、幸運がやってきた。

2011年当時、イランと米国の関係は最悪であった。米国は核査察を受け入
れないイランを経済封鎖その他で圧力をかけていた。イランは対抗してホルムズ
海峡封鎖をちらつかせていた。

そんな時にイランを旅行するなんて危ないではないかという声も聞こえてきた。
しかし、実際に入国してみて、又後から分かることだが、中は安定していて危険
を感じることはなかった。そして、今のイランと米国の関係を見ると、3年前の
危機は一体なんだったのかという思いも湧く。危機とは意図的に作り出されるもの
ではないかとも。世の中の変化は早い、振り回されない知恵を持たねばと思う。

テヘランを経由して、イラン北西部の大都市タブリーズに飛ぶ。イラク、トルコ、
アルメニア国境に近い地域である。つまりクルド族が散在して住んでいるところ
である。そこからバスでザーグロス山脈に沿ってひたすら南下する。この山脈は
イラク国境から100−200kmくらい離れて平行して走っている山脈である。

ガイドは、1980−1988年のイラン・イラク戦争の時、この山脈の西側は
激しい戦場になったことを話してくれた。イラクのクルド人がフセインに化学兵
器を使われたのはこの戦争の時、クルド人がイランの味方をしたことを報復され
たとのことである。

バスガイドがクルド人の特徴をその時々に教えてくれる。男性は服装特にズボン
に特徴があると教えてくれた。クルドの女性は大変に美しいと言った。インド・
ヨーロッパ語族の特徴を備えていると。

ガイドはトルコの血が入ったイラン(ペルシャ)人だったが、クルド人に対して
優しかった。虐げられている民族の特徴を持っていて、お互いの間での支え合い
や、弱い人に対しての優しさを指摘した。一方、虐げる者へは強く反発することも。

ザーグロス山脈を南下すると、「コルデスターン州」にさしかかる。コルデスタ
ーンとは、あの「クルディスタン」のことである。クルド人の住む地域を意味す
る。彼らの憧れる「国」を連想させる。この州の西側はイラク国境線である。

この地域には、多数のクルド人がまとまって住んでいるとのことであった。
そして、山脈の峰に沿ってバスは走っていたのだが、賑やかな音楽が聞こえてきた。
なんだろうと窓からのぞくと、綺麗な民族衣装を着た男女が集まってお祭りを
しているようだ。ガイドが、あっ、これは結婚式だ。降りようと言って、バスを
止めて皆を促す。

クルド人に近づくというので、皆おそるおそる寄って行く。ガイドはつかつかと
寄っていって、日本人観光客であることを告げる。主催者も親族など参列者も、
喜んでこっちへと誘う。写真をいくらでも撮らせてくれた。花嫁、花婿もポーズ
を取ってくれる。主催者がお茶を飲んで行かないかと言っているようで、お客を
もてなすのは彼らの当然の慣習とのこと。ただ、時間がないので、ガイドがそれ
は丁重に断っていた。

待っていた絶好の機会だったが、後ろ髪を引かれる思いでバスは出立する。
山脈を走り続けて更に南下した。

結婚式の写真を1枚アップしておきます。

(つづく)


[No.6804] トルコのクルド人 投稿者:GRUE  投稿日:2014/09/24(Wed) 13:15
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トルコのクルド人
画像サイズ: 800×600 (90kB)
中東、北アフリカの多くの国が今は訪問できない状態に陥っています。その中で、
トルコ特にイスタンブールを中心とする西トルコ(東はアンカラ、カッパドキヤ
の線まで)の観光が日本人の間では1,2を争っているそうです。実際、この6
月イスタンブールの空港の入国管理所は大変な混雑でびっくりしたが、この半分
は日本人のように見えました。

しかし、東トルコはまだ日本人の訪問はそう多くない。これには、クルド人の問
題、シリヤやイラクに国境を接していて、なんとなく不安で行きそびれているの
かもしれないと思います。

実際、トルコのクルド人の問題は微妙だと私も思います。現地ガイドが重要なの
だが、今年6月のガイドはこの問題に触れたがらなかった。クルドだけでなく、
シリアやイラク難民の実情などにも触れたがらない。迷惑がっているようにもみ
えました。ガイドだけでなく、政府自体がそうかもしれないなとも思います。

彼が触れてくれないので、ざっとクルドに関わる経緯を調べたものをあげておき
ます。間違いなどあるかもしれませんが、あればご指摘ください。

クルド問題は(というか中東問題はであるのだろうが)、広大な版図を誇った
オスマン帝国が第一次世界大戦時(1910年代)で敗れた時に遡らねばなら
ない。クルド問題について言えば、英仏がサイクス・ピコ協定を結んで、恣意
的に引いた国境線により、クルド人は自分の国を持つことができなくなった。

トルコ民族は自国を失いかねない危機に瀕して、ムスタファ・ケマル将軍(後
にアタチュルクと呼ばれる)は独立戦争を起こし、現トルコの領域を確保した。

この時、クルド人はこの戦争に協力したが、政府は単一民族主義を取り、その
結果、クルド人はトルコ人とされ、クルド語を認められないなどの差別を受け
てきた。

トルコにはクルド人は1000万人以上いて、主に、東南部に居住している。
1990年代に分離独立を掲げてPKK(クルディスタン労働者党)が政府に
対してゲリラ攻撃を起こしたが、政府軍によって鎮められた。

この後、欧州連合(EU)加盟を目指すトルコは、「クルド人の人権問題」を
指摘されて同化政策を改め、クルド語の使用、放送などを認めた。更なる文化
的権利の保障が指摘されている。

ざっと、こんなところでしょうか。こうした緩和策によって、東トルコへの
外国人の観光も開始されるようになりました。

イスタンブールを経てガジアンテップに飛び、そこからバスでシリヤ国境線や
イラク国境線に一定の距離を保って東進するのであるが、ほとんどクルド人が
共存する地域を通過する。

その途中の中程でディヤルバクルという大きな都市に泊まる。ここは、ほとん
どがクルド人ということであった。ガイドから、今日はクルド人が集会をやっ
ているので、近づかないように言われた。何の集会かは説明をしない。夜は
外にでないようにとも、その次の日、ジャーミイ(モスクのこと)観光と市場
見物が予定されていたが、途中が危険なのでお客様のためにと一行の前後に
私服警官が付いた。

話が外れますが、この町はあのチグリス河の上流に沿ってできた町で、初めて
チグリス河に会えたのは感激でした。(チグリス河は、中流、下流はイラク
領内を流れていて今は見ることすらできない。)

ディアルバクルからタトワン(ワン湖の南西端)までの地域は、PKKが武装
闘争を起こした場所で、それについては色々説明してくれた。いずれにしても
この一体は東部アナトリア高原(1500m以上)の山岳地帯である。
今はもう昔のことであると強調しました。(20年程前のことですが)
この途中でもクルドの若い人たちと一緒になり写真を撮らせてもらいました。

又、外れますが、ワン湖の南東端の都市ワンでは、あの泳ぎがうまく、左右の
目の色が異なるワン猫にあったのでした。

ワンからは、ワン湖に浮かぶアクダマル島に渡りアルメニア教会(10世紀)
を見学した。この遊覧船上でクルドの若い人たちと一緒になりました。

ドウバヤズィット(イラン国境まで約100km)に達し、そこから、あの
アララト山(トルコ最高峰 5137m)を眺めた話はしました。その途中、
17世紀にクルド人の領主が築いたという美しいイサク・パシャ宮殿を訪問
しました。ここで、日本人の若い女性一人旅にあったことは「アララト山」
のツリーで述べました。これからイラン国境を越えてイランに入るとのこと
でした。

トルコのクルド人が今後どのようになるか、自治を得てもっと住みやすくな
っていくのかどうか見ていきたいと思います。

ディアルバクルの町の大城壁の遠景を背景にしたチグリス河上流の写真を
アップしておきます。

(つづく)


[No.6806] Re: トルコのクルド人 投稿者:オアシス  投稿日:2014/09/24(Wed) 21:55
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GRUEさん、こんばんは。
非常に興味・関心・おおいに気になる 地域・人種・状況 地政学的にも大きな問題に
かかわる力作 最高に惹きつけられ
て読ませて頂いております。
結婚式の写真、チグリス・ユーフラティスの大河の写真 素晴らしいです。
まだ つづく となっており、興味津々 強烈な期待でもって読ませて頂いております。
次が楽しみ、読み甲斐あり とっても勉強になります。

私メより 10近くお若い 貴殿、何卒頑張って続けて下さいますようお願い申しあげ
ます。

                           オアシス


> 中東、北アフリカの多くの国が今は訪問できない状態に陥っています。その中で、
> トルコ特にイスタンブールを中心とする西トルコ(東はアンカラ、カッパドキヤ
> の線まで)の観光が日本人の間では1,2を争っているそうです。実際、この6
> 月イスタンブールの空港の入国管理所は大変な混雑でびっくりしたが、この半分
> は日本人のように見えました。
>
> しかし、東トルコはまだ日本人の訪問はそう多くない。これには、クルド人の問
> 題、シリヤやイラクに国境を接していて、なんとなく不安で行きそびれているの
> かもしれないと思います。
>
> 実際、トルコのクルド人の問題は微妙だと私も思います。現地ガイドが重要なの
> だが、今年6月のガイドはこの問題に触れたがらなかった。クルドだけでなく、
> シリアやイラク難民の実情などにも触れたがらない。迷惑がっているようにもみ
> えました。ガイドだけでなく、政府自体がそうかもしれないなとも思います。
>
> 彼が触れてくれないので、ざっとクルドに関わる経緯を調べたものをあげておき
> ます。間違いなどあるかもしれませんが、あればご指摘ください。
>
引用が長すぎるで 送信出来なかったのが、残念!

> クルド問題は(というか中東問題はであるのだろうが)、広大な版図を誇った
> オスマン帝国が第一次世界大戦時(1910年代)で敗れた時に遡らねばなら
> ない。クルド問題について言えば、英仏がサイクス・ピコ協定を結んで、恣意
> 的に引いた国境線により、クルド人は自分の国を持つことができなくなった。
>
> トルコ民族は自国を失いかねない危機に瀕して、ムスタファ・ケマル将軍(後
> にアタチュルクと呼ばれる)は独立戦争を起こし、現トルコの領域を確保した。
>
> この時、クルド人はこの戦争に協力したが、政府は単一民族主義を取り、その
> 結果、クルド人はトルコ人とされ、クルド語を認められないなどの差別を受け
> てきた。
>
> トルコにはクルド人は1000万人以上いて、主に、東南部に居住している。
> 1990年代に分離独立を掲げてPKK(クルディスタン労働者党)が政府に
> 対してゲリラ攻撃を起こしたが、政府軍によって鎮められた。
>
> この後、欧州連合(EU)加盟を目指すトルコは、「クルド人の人権問題」を
> 指摘されて同化政策を改め、クルド語の使用、放送などを認めた。更なる文化
> 的権利の保障が指摘されている。
>
> ざっと、こんなところでしょうか。こうした緩和策によって、東トルコへの
> 外国人の観光も開始されるようになりました。
>
良かったぁ。大変勉強させてもらっています。

> イスタンブールを経てガジアンテップに飛び、そこからバスでシリヤ国境線や
> イラク国境線に一定の距離を保って東進するのであるが、ほとんどクルド人が
> 共存する地域を通過する。
>
> その途中の中程でディヤルバクルという大きな都市に泊まる。ここは、ほとん
> どがクルド人ということであった。ガイドから、今日はクルド人が集会をやっ
> ているので、近づかないように言われた。何の集会かは説明をしない。夜は
> 外にでないようにとも、その次の日、ジャーミイ(モスクのこと)観光と市場
> 見物が予定されていたが、途中が危険なのでお客様のためにと一行の前後に
> 私服警官が付いた。
>
> 話が外れますが、この町はあのチグリス河の上流に沿ってできた町で、初めて
> チグリス河に会えたのは感激でした。(チグリス河は、中流、下流はイラク
> 領内を流れていて今は見ることすらできない。)
>
> ディアルバクルからタトワン(ワン湖の南西端)までの地域は、PKKが武装
> 闘争を起こした場所で、それについては色々説明してくれた。いずれにしても
> この一体は東部アナトリア高原(1500m以上)の山岳地帯である。
> 今はもう昔のことであると強調しました。(20年程前のことですが)
> この途中でもクルドの若い人たちと一緒になり写真を撮らせてもらいました。
>
> 又、外れますが、ワン湖の南東端の都市ワンでは、あの泳ぎがうまく、左右の
> 目の色が異なるワン猫にあったのでした。
>
> ワンからは、ワン湖に浮かぶアクダマル島に渡りアルメニア教会(10世紀)
> を見学した。この遊覧船上でクルドの若い人たちと一緒になりました。
>
> ドウバヤズィット(イラン国境まで約100km)に達し、そこから、あの
> アララト山(トルコ最高峰 5137m)を眺めた話はしました。その途中、
> 17世紀にクルド人の領主が築いたという美しいイサク・パシャ宮殿を訪問
> しました。ここで、日本人の若い女性一人旅にあったことは「アララト山」
> のツリーで述べました。これからイラン国境を越えてイランに入るとのこと
> でした。
>
> トルコのクルド人が今後どのようになるか、自治を得てもっと住みやすくな
> っていくのかどうか見ていきたいと思います。
>
> ディアルバクルの町の大城壁の遠景を背景にしたチグリス河上流の写真を
> アップしておきます。
>
> (つづく)


[No.6808] Re: トルコのクルド人 投稿者:GRUE  投稿日:2014/09/25(Thu) 14:11
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オアシスさん、みなさん、こんにちは、

> 非常に興味・関心・おおいに気になる 地域・人種・状況 地政学的にも大きな問題に
> かかわる力作 最高に惹きつけられ
> て読ませて頂いております。

話題が大きすぎて敬遠されてるかなと心配してました。

> 結婚式の写真、チグリス・ユーフラティスの大河の写真 素晴らしいです。
> まだ つづく となっており、興味津々 強烈な期待でもって読ませて頂いております。
> 次が楽しみ、読み甲斐あり とっても勉強になります。

そう言ってくださると励みになります。

> 私メより 10近くお若い 貴殿、何卒頑張って続けて下さいますようお願い申しあげ
> ます。

そんな、後何回行けるかなと勘定しながら候補地を絞り始めています。(笑)

レスありがとうございました。(なお、後に続く引用は不要だと思われます)

もう少し頑張ってみます。残っているものほどどう書くか難しいです。微妙な
ものを含んでいますので。


[No.6810] シリアのクルド人 投稿者:GRUE  投稿日:2014/09/25(Thu) 15:12
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シリアのクルド人
画像サイズ: 800×533 (93kB)
このところシリアという言葉を聞かない日はないような毎日ですね。

実は、別のところで書きましたが、2010年12月にシリアを訪れ
ました。3ヶ月後に「アラブの春」が始まって、すぐに入れなくなる
など予想だにしなかったのです。まして、今のような血で血を争うよ
うな状態になってしまうとは。

しかし、3年半前、全く気配を感じなかったかというとそうでもない
気がしているのです。

ダマスカス市内を歩き回った訳ですが、どっか冷たい気配、目線を感
じました。アラブ特有の明るさ、賑やかさが欠けていたのです。
そして、花屋が見当たらないね、どうしてなんだろうとも仲間内で話
しあっていました。

シリアでは、パルミラ遺跡は見るに絶対欠かせない場所ですが、この
遺跡はシリアのほぼ中央部にある。しかし、コースは中部止まりで組
まれていて、北部が抜けている。アレッポは当然入っていなければい
けないのに。

北部は荒れているという話は聞いていた。今から思うと既に分かる
人には分かっていたのだなと思います。

シリアのクルド人は4国の内で一番少なく、200万弱くらい。
しかも、トルコ国境にへばりつくような形で住んでいる。中部、南部
を歩き回っていては、ほとんど会う機会がなかったのは当然なのでし
た。

むしろ、今年6月トルコ旅行の際に、シリア国境に近いトルコの町で、
シリア難民を見かけた。黒い布で全身をスッポリ覆った女性達が子供
連れで買い物などしていた。

時期が時期だけに、銃撃戦を避けて来た避難民は、国境間際でテント
生活を余儀なくされていたようでした。

シリア国境から2,30kmの所に、ハラン(トルコ)という町が
あり訪れた。この町は、旧約聖書では、あのアブラハム(3大一神
教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の預言者)がユーフ
ラテス河下流のウルを出発して約束された土地カナン(イスラエル)
に向かう途中一時住んでいた場所とされている聖地である。

この地では、シリア側でアサド政権派と反体制派との銃撃戦、砲撃戦
があると、空が花火を上げたように赤くなり、大きな音が聞こえると
のことでした。

シリアのクルド人は、このような場所に住んできた訳です。
もっとも厳しい環境にあるというべきでしょう。


パルミラ(世界遺産)はシリア中部の大シリア砂漠の真ん中でオア
シス都市として栄えた。ダマスカス北東230km、ホムスの
東100kmにある。中国と西欧(ローマ)とを結ぶシルクロード
の要衝であった。

紀元前1世紀頃、西の古代ローマ、東のパルティアの2大強国が争
う力関係をうまく利用し最盛期であった。紀元270年頃、女王
ゼノビアが現れ、ローマの圧力にも抵抗したが、ついにアウレリア
ヌス帝に屈し、やがてパルミラは滅びた。

広大なパルミラの写真をアップしておきます。(2010年12月撮影)

(つづく)


[No.6819] イラクのクルド人 投稿者:GRUE  投稿日:2014/10/02(Thu) 18:07
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最後はイラクのクルド人です。これについて触れないとクルド人問題に
ついて終わらせることはできないようです。

しかし、実は、私はイラクを訪問する機会を逸した。シルクロードをたど
る旅には、実はイラクの訪問は不可欠であります。又、この地域は、ご存
じのように、チグリス・ユーフラテス河の中下流域にあり、メソポタミア
文明を理解する上でなくてはならない場所でもあります。

しかも、あの大義なきイラク戦争(2003年)以降、この地域は混乱を
続けており(パンドラの箱を開けてしまったと言う人もいる)、今では
更に一層混迷を深めてきて、一般外国人の訪問がいつ可能になるかは全く
見通しが立ちません。

従って、イラクのクルド人のことを語るには、どこかに書かれたニュース
や報告や本などを通しての情報になってしまう。つまり伝聞情報のみにな
るのだが致し方ないでしょう。お許しください。

イラクの一般的な情報、イラン・イラク戦争(1980-1988年)、湾岸戦争
(1991年、イラクがクェートに侵攻して敗北)、イラク戦争(2003年、
サダム・フセイン政権崩壊)、米国イラク撤退(2011年)などは既知と
して話を進めます。現在の混迷の状況はよくご存知でしょう。

イラクのクルド問題は他の3国(トルコ、イラン、シリア)とは大変
違っていると思います。イラク北部にクルド自治政府(クルディスタン
地域政府ともいう)を確保していることです。イラクのクルド人は約
500万人、イラクの2割弱を占める。

第二次大戦後、イラク中央政府と戦争(いわゆるイラク・クルド戦争)
を重ねて来て、1970年に、バース党政権との間での協定でクルド人
自治区が北部に設けられた。しかし、バース党政権とは常に緊張関係に
ある。自治区の首府はアルビール。独自の軍隊を持つ。

イラン・イラク戦争(1980-1988年)では、イランと手を結び、その結果
末期にバース党政権に化学兵器を使用されたとされている。
で、湾岸戦争(1991年)では、欧米、湾岸諸国6国(サウジ、クエェー
ト、カタール、バーレイン、首長国連邦、オマーン)側に付いて、特に
米国との関係を強めた。

イラク戦争(2003年)でも、連合国側に付いてバース党政権に抵抗して
戦った。

連合国側に付いて、自治区(クルディスタン地域)の独立やモースル、
キルクーク(油田地域)への拡大を求めているが、イラク国内のアラブ
人や、隣国トルコ(国内に深刻なクルド人問題あり)の反対で、先行き
は分からない。

ただ、現在、自治政府は外交権以外の権限を持ち、独自の大統領(議長
ともいう)を持っている。

イラクでは少なくともクルド人の存在が無視できなくなっているように
見えるが、どうなるかは分からない。自国内で解決できず、不確定要素
が多すぎる。

(おわり)