GRUE さん、みなさん、こんばんは。(^^♪ > ところで、つい最近、橿原市の新沢千塚古墳群(国史跡)の126号墳(5世紀> 後半)で出土したガラス皿の化学組成が、ローマ帝国(前27ー395年)領内で見> つかったローマ・ガラスとほぼ一致したとの報告がありました。東京理科大の> グループにより、蛍光X線分析で分かったとのこと。> http://www.asahi.com/topics/word/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8.html トーシロの紋次郎も、ガラスには世間並みの興味があります。イタリアのヴェネーツィアを訪れたときは、皆のまねをして、ムラーノ島へも行き、ウィンドウを夢中で覗き込んでいるうち、地元スリの手練れに、身ぐるみそっくりやられました。(-_-;) 先日は全国大会の帰りに神戸、異人館でガレの傑作を前に、不覚にも涎をたらしました。ところで、 このニイザワセンヅカ126号古墳から出土した紺色ガラス皿(東京国立博物館蔵)については、ガラス工芸研究家の由水常雄氏などは、早くからローマン・グラスとして記述されていますが…。実際には、現在に至るまで、綿密な検証は済んでいなかったんでしょうかね。> これはすごいニュースであると思います。5世紀後半以前にガラス器がローマ> から伝来していたということは、想像以上に早く奈良とローマはシルクロード> を経由して繋がっていたことになる訳ですから。> いずれにしても、5世紀にして、奈良はペルシャ、ローマと繋がっていたこと> が分かったことは嬉しいニュースであり、更にロマンを駆り立てますね。 ったくですね。あっしらが、こういうグローバルな想像を働かせるきっかけを作った光明皇太后の事績(聖武天皇の遺品を、正倉院へ納めた事実)も、もっと称賛されていいのではないでしょうか。しっかし、 ガラス製造など、あっしは近代産業のように思っていたのですが、規模を問わなければ紀元前15〜18世紀にも遡るというのですから、もの凄く古いのですね。(メソポタミア)(@_@;)(@_@;)
毎日、毎日バタバタと過ごしています。7日から今日まで、朝から夜までなにやかやとありました。明日は仕事です。そんな中、今日は家にいればいれたんですが、午前は自治会館で、保健活動・広報の資料のパソコンに打ち込みました。午後はまたまた会館へ行き、私が撮った文化祭の写真を50枚ほど印刷しました。とても面倒でした。それを昨年の写真と共に、新しいアルバムにセットしました。来年の会場作りに参考にするのです。それに保健活動として、行事への参加が3つあるので、そのことで電話をかけまくりました。たった今、終わった電話なんですが、普通電話でかけたところ、「Mさんでしょうか?」と言うと、「違います。Sです」とおばさま。偶然にも私と同じ姓でした。「失礼しました。私もSです」と言いたかったのですが、「失礼しました」と切りました。自分が間違えていたと思わず、昼間かけた時は、ご主人が出たのに変だわ? と頭をかしげていました。かけないわけにいかず、携帯電話に入っているかと見たら、「Mさん」が2人ありました。1人は名前まで書いてあったのですが、1人は名がありません。もしかしたら彼女の携帯番号と思って、そちらへかけたら、彼女でなく、一昨日「ボランティア研修バスハイク」へ一緒に行った人でした。忙しさで頭がこんがらかっているんですね。それとも認知症?同姓が3人もいるんだわ。名前まできちんと書いておかなくてはいけないと実感しました。そんなことがあって、やっと、もしかしたら、間違えてかけたかもしれない。万が一違っていたら誤ればいいわ。と再度かけたら、大丈夫でした。最初にかけた時に間違えたんですね。その電話によって、もう1人に電話をかけて終わりました。なんとなくほっとして、こんないたずら書きをしています。バスハイクのバスの中で研修の勉強として、認知症のおばあ様と家族の物語のビデオを見たのです。とてもおおらかで元気なおばあ様でした。今日のこの一時、私も認知症ではなかったかしら? なんて自分を笑ってもいます。夫がまだ帰らずでこんなことしていられるのです。
失礼しました。「ハルモニのセブ留学記」は 「旅行記の部屋」でした。 GRUE さん ありがとうございました。
マーチャン、> 拝読しています。つづきを楽しみにしています。> > 異郷で、奮闘しておられる ぱらむさん> > クラスでは最年長組でも、みなさんに溶け込んで素晴らしい。> > すごいです。ほんと、そうですね。感心して、陰ながらエールを送っています。> お体に気を付けて、がんばってくださいね。同じく。ところで、マーチャン、「旅行記」の方に書かれています。
> ずっとシルクロードのロマンを追っかけています。すばらしいです!!!> 話が少し外れますが、正倉院は大修理が終わって、10/22-11/7に奈良国立博物館で> 一般公開されていましたね。しかし、忙しくて行けないのが大変残念でした。> (どなたか行かれたのでしょうか?)正倉院へ行ったのは20年くらい前が最後です。 > いずれにしても、5世紀にして、奈良はペルシャ、ローマと繋がっていたこと> が分かったことは嬉しいニュースであり、更にロマンを駆り立てますね。すごいことですね。それにしても、まだこのようにシルクロードのロマンを追いかけていられることにすごさを感じます。旅は大好きでしたが、今は近所を歩くことで終わっています。
> この項もだらだらと続いてしまったが、本日をもって完結である。長のご精読を謝す。 おわりおわりましたね。数々の写真と共に楽しませていただきました。感想は「旅行ができる紋ちゃんが、ただただ羨ましい!」が大きいです。
拝読しています。つづきを楽しみにしています。 異郷で、奮闘しておられる ぱらむさん クラスでは最年長組でも、みなさんに溶け込んで素晴らしい。 すごいです。 お体に気を付けて、がんばってくださいね。
画像サイズ: 520×380 (85kB) 中景の数人が向かっているのが、奥の方に見える闘技場だ。円形劇場などと表記されることもあるが、ここでは主として闘技が行われた。 説明書などで、収容人員20000とかあると、あっしなど不審に思う。だいたい、人口が一番多かった時でも25000人と云われている街で、なぜそんな巨大なものを造ったのか。上の方の席では、ほとんど豆粒にしか見えないとすれば、迫力にも欠ける。 たしかに建設には莫大な費用がかかるので、すべての都市にあったとは、とても思えないが、今生まれたばかりの子供や、その親、足腰の悪い老人だの、病臥中のものは、わざわざ観に行かないであろうし、もうすこし、小型のものを複数造った方が、良かあないかと、あっしなどは、思うのだが…。さて、 この項もだらだらと続いてしまったが、本日をもって完結である。長のご精読を謝す。 おわり
皆さま、おはようございます。ずっとシルクロードのロマンを追っかけています。このロードでの交流の証拠は、正倉院の白瑠璃瓶 [はくるりのへい]が一番遠くてペルシャ産であろうとされてきたと認識してました。話が少し外れますが、正倉院は大修理が終わって、10/22-11/7に奈良国立博物館で一般公開されていましたね。しかし、忙しくて行けないのが大変残念でした。(どなたか行かれたのでしょうか?)ところで、つい最近、橿原市の新沢千塚古墳群(国史跡)の126号墳(5世紀後半)で出土したガラス皿の化学組成が、ローマ帝国(前27ー395年)領内で見つかったローマ・ガラスとほぼ一致したとの報告がありました。東京理科大のグループにより、蛍光X線分析で分かったとのこと。http://www.asahi.com/topics/word/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8.htmlこれはすごいニュースであると思います。5世紀後半以前にガラス器がローマから伝来していたということは、想像以上に早く奈良とローマはシルクロードを経由して繋がっていたことになる訳ですから。東京国立博物館が所蔵し、国の重要文化財とのこと。12月7日まで同博物館展示されるそうです。なお、おまけの話がある。126号古墳からは、円形切子ガラス括椀(くびれわん)も見つかっていたが、これも同じ分析法で、ササン朝ペルシャ(226-651)の首都、クテシフォンの王宮遺跡で見つかったガラス片と組成が同じとのこと。これもビッグニュースである。なお、クテシフォンは、ティグリス河畔のイラクの首都バクダットの近くにある。残念なことに、現在訪問はできない。いつ行けるかも定かではない。いずれにしても、5世紀にして、奈良はペルシャ、ローマと繋がっていたことが分かったことは嬉しいニュースであり、更にロマンを駆り立てますね。
画像サイズ: 510×373 (83kB) 旅行中はなにかと忙しく、写真も、訳も分からず撮りっぱなしが多い。そこで帰国後ヒマのできたとき、あれこれ調べてみるのも愉しみの一つだ。 この写真も、後で調べると、色々なことが分かった。まずここは居酒屋の跡だった。しかしポンぺイでスゴイのは、2000年前の家の主人の職業から、名前までが分かってしまう場合が多いことだ。 中には、家の種別が個人住宅までは分かるが、その持ち主の名前まではわからぬものも、もちろん幾らでもある。 ポンペイというのは、だいたい上野公園くらいの広さだそうだが、これが9の区に分かたれていた。この遺跡は、その第1区第4島15(16)番地に位置している。 地図で見ると面白いことに、最初の第1区と、最後の第9区は隣り合っていた。その間を、目抜きのアッボンダンツァ通りが貫通している。で、 遺跡発掘の責任者(当時)フィオレッリによると、この建物跡が発掘されたのは、1853年12月9日のこと。同所から青銅製の燭台があらわれ、それつけられた銘板に、この家の持ち主の名が刻まれていたという。それで、 ここがユーニ・プロクリという人の経営する居酒屋tabernaであったことが、判明した。 なお、その2本の芯のある金属製の燭台は、現在、ナポリの国立考古学博物館にある由。(つづく)。