地元のビデオクラブに入って、12月の例会で宿題が出た。「年賀ビデオの制作・1月例会で発表」この時、初めてテーマに沿って撮影し、作品を作ることを知った。私は、正月の「初詣で」を、近くの谷保天神に撮りに行ったと思うが、何しろ昔のことで、記憶は定かでない。この例会では、もう一つ「収穫」があった。私の住むT市では、クリスマス前後に「太陽が富士山の頂上に落日する」いわゆる「ダイアモンド富士」が観測できるので、みんなで撮りに行こう、ということになったのである。当日は、みんなで多摩川の土手に三脚を立て、カメラの砲列を作ったことを覚えている。太陽が、富士山頂に沈むまでは明るく暖かいが、沈んが後は急速に冷え込み、それでも、西に出ていた雲が茜色の染まっている風景を撮り続けた。 つづく
>1.ビデオデッキ(1)で「素材映像」を送り出す。>2.ビデオダッキ(2)で「素材映像」を録画する。> ここで「編集」の作業が入る。 1.と「再生」に、2.「録画」にして同時にスイッチ・オンにして、1.の映像で不要なところにきたら、同時に「一時停止」にし、 1.だけを早送りして「不要」な画面をパスする。 必要な画面がくると、2を動かして「録画」する。原理的にはこのような作業の繰り返しであるが、このような複雑なことは1人ではとてもやっていけない。そこで「コントローラー」という、機械を使う。これは、1.の再生、早送り、2.の録画が手元でできる便利な機械であった。値段は10万円くらいだったと思う。このようにして、タイトルやテロップを入れる「タイトラー」、色調を補正する「カラーコレクター」、ナレーション用のマイクなど揃えていって、深みにはまっていくことになる。 つづく
まず、編集するために最低限必要な機材を揃えた。当時のカメラは「Hi-8」という規格のアナログ・テープであった。このテープで撮影した「素材映像」を次のような「流れ」で編集するのである。1.ビデオデッキ(1)で「素材映像」を送り出す。2.ビデオダッキ(2)で「素材映像」を録画する。編集原理は、この2工程であるが、そのまま録画しても、「素材映像」がもう1本できるでかなので、ここで「編集」の作業が入る。このために8ミリのビデオデッキ2台を購入した。当時、1台20万〜30万円した。デッキ(1)は、映像を送り出すだけなので、再生機能があればよいが、デッキ(2)は、後述するが、録画と当時にBGMやナレーションなどを録音できる、編集機能がついていないといけないので、40万円ほどのものを購入した。 つづく
まやさん、こんばん >ビデオを感心しながら、楽しく拝見しています。 早速拙文を読んでくださってありがとうございます。 > カメラは父が趣味にしていたので、フィルムの現像から焼き付け、引き伸ばし> など、子供のころから父のそばで見ていたので思い出がいっぱいです。 大学まではやっていたのですが、卒業して会社に入ってからは、暗室を作る部屋などなく 撮影オンリーになってしまいました。 多摩のけん
多摩のけんさん、今日は! ビデオを感心しながら、楽しく拝見しています。 カメラは父が趣味にしていたので、フィルムの現像から焼き付け、引き伸ばしなど、子供のころから父のそばで見ていたので思い出がいっぱいです。それに、父が会社の8ミリで撮影した山でキャンプしている動画など(私が8歳くらいのときのもの)懐かしいですが、そのフイルムと映写機は会社にあったので今はどこへやら? 技術が進んでいるし、機材を入手しやすくなっているので、昨今はどんどん趣味人が増えていますね。 これからもいろいろとすばらしいビデオを拝見させてくださいませ。まや
ビデオクラブの会合は、市の中央公民館(現・中央学習館)の視聴覚教室であった。出席者約10名。みんな高齢者であった。自分で撮ったビデオをみんなに見せあっていたが、驚いたことに、ところどころ、テレビで見るような「テロップ」が入っていた。自分たちの素人でも、テレビのようなビデオができるのだ、という衝撃は今でも生々しく覚えている。この衝撃が、ビデオにのめり込むキッカケとなった。 つづく
娘と孫娘が自分の家に帰っていった。ビデオ・カメラとともに...心にポッカリと穴があいてしまった。ビデオ・カメラは、娘婿が持っていたのと全く同じ機種のものを買った。でも、何を撮ればいいのだろう?その時、わが奥方が「ここにビデオクラブの会員募集をしているわよ」と市報を持ってきてくれた。いつもケンカばかりしているのに、やはり私のことを考えてくれているのだ、と、ジンとくるものがあった。「ありがとう」と素直に感謝して、そのクラブに見学に行くことにした。 つづく
その頃、ビデオに関しては全くの素人で、ただ、ひたすら可愛い孫の姿を撮り続けていた。後で見ると柱が斜めになっていたり、ベビーベッドの横に汚れたおむつ入れのポリバケツが写っていたり...わが奥方から「これでは人様に見せられない」と文句を言われた。いまは使い捨てのおむつだが、当時は、いわゆる「オシメ」だったような気がするが、このあたりの記憶は、定かでない。 つづく
写真がビデオになったキッカケは、孫が生まれてから。娘が結婚し女児を私の近くの病院で出産し、しばらく拙宅に身を寄せていた。娘婿は、土曜に来て1泊し日曜に帰っていく日が続いたが、娘婿がいない日にも孫を撮ってほしいとビデオ・カメラを置いて行った。ビデオ・カメラは使ったことがないので、操作法を教えてもらって、孫を撮り続けた。赤ん坊は、表情が刻々と変わるので、撮っていても結構楽しい。その孫娘が、今や大学3年生になり、我が家に寄宿して、大学に通っている。 つづく
私は、若いころは写真は撮っていたが、動画には全く縁がなかった。縁がないというよりは、経済的に8ミリなどを楽しむことは許されなかった。写真は、かなり凝っていて、高校時代から、家で現像、引き伸ばしなどもやっていた。夜、4畳半の部屋に暗幕を張り巡らし、氷酢酸の刺激臭に悩まされながら、夜遅くまでやっていた。大抵、土曜日の夜やって、翌日の日曜日に乾燥、切断などしていたが、昼明るいところで見ると、ピントが甘かったりしていてた苦い経験を思い出す。それでも、大学卒業の時は、自分の所属したゼミの卒業アルバムを14人分、一人で作り、他のゼミのものからヤッカミの苦情を聞きながらも1人得意になっていた。そのころから、私はイヤミな人間だったのですね。(ー_ー)!! つづく