あやさん> 今日は7日、土曜日。グループホームの介助のシフトはなかったので、珍しく> 空いた日となった。> でも、9時から街の道路にマリーゴールドを植えなつけるという作業があった。> それが終ったら、レナウンのバーゲンセールの案内ががきていたので、そこへ行> きたいと思っていた。夫を誘い、昼食もと考えたのだ。> 夫に言うと、「バーゲンなんて行きたくない。ゴルフ練習に行ってくる」で> 終わり。> > でも、朝から梅雨の雨で、しかも大雨注意報や、洪水注意報が出ていた。> やがて500株のマリーゴルドの苗が届いた。これは区からのものだった。そ> れでは足りないので、200株わが街で購入したのだ。> 雨は止みそうになく、結局は中止の状態となった。> そのあと、残りの案内を3通届けて家に帰ってきたのは17時になっていたか。> 夕食の米を研いで、おかずはなににしようかと思っても、なんともお腹が一杯な> 感じで食欲がない。ままよ、どうにかなるだろうと、パソコンに向かって、こん> ことをしている。現在19時10分、夫はまだ帰ってこない。> > でも、こんな日があってもいいかと、呑気にしている。おつかれさまでした。雨なんですね。ゴルフは大丈夫だったのでしょうか。
今日は7日、土曜日。グループホームの介助のシフトはなかったので、珍しく空いた日となった。 でも、9時から街の道路にマリーゴールドを植えなつけるという作業があった。それが終ったら、レナウンのバーゲンセールの案内ががきていたので、そこへ行きたいと思っていた。夫を誘い、昼食もと考えたのだ。 夫に言うと、「バーゲンなんて行きたくない。ゴルフ練習に行ってくる」で終わり。 でも、朝から梅雨の雨で、しかも大雨注意報や、洪水注意報が出ていた。作業はできないだろうと思いながらも、明日に延期したら、参加できない。グループホームへの介助があるからだ。 そんなことで、参加の男性へ電話してみた。たぶんできないだろうが、苗も届くことで8時半に行くという。私も出かけた。 会館までの道で、マリーゴールドを植えるところの写真を何枚も摂った。次号の広報に載せようと思ったからだ。植えつけで雨になったことは今までにない。そんなわけで、雨で植え付けができなかった写真と植えつけが終った写真を載せようと思ったのだ。 やってきたのは彼と、会長と私の3人。 やがて500株のマリーゴルドの苗が届いた。これは区からのものだった。それでは足りないので、200株わが街で購入したのだ。 雨は止みそうになく、結局は中止の状態となった。会館でパソコンを打込み印刷したりしているうちに、事務局の男性が盆踊りの出店募集の案内を印刷、発送の準備をしだした。 帰ってもいいのだが手伝うことにして、あて名書きをし、6か所へと届けるはめになった。 その途中で知人に電話したら、「いるよ。よかったらお出で」でいくことにした。私専用に置かれている焼酎霧島をお湯割りにして、どのくらい飲んだか、飲み屋で飲むとしたら、10杯もの量を飲んだか。話題はパソコン談義、テレビのドラマをちょっと見て、5時間もいただろうか。 そのあと、残りの案内を3通届けて家に帰ってきたのは17時になっていたか。夕食の米を研いで、おかずはなににしようかと思っても、なんともお腹が一杯な感じで食欲がない。ままよ、どうにかなるだろうと、パソコンに向かって、こんことをしている。現在19時10分、夫はまだ帰ってこない。 でも、こんな日があってもいいかと、呑気にしている。
紋次郎さん、ほんとお久です。(^_-) 忘れられてしまったのか思ってました。> > 友の振る手のしらじらと谷若葉> > 谷若葉、いい言葉ですね。目の前に情景が浮かぶようです。で、いまネットで見ると、若葉の付いた言葉もケッコウ多い紋ですな。> > いわく、里若葉、山若葉、窓若葉、柿若葉、椎若葉、樫若葉、樟若葉、若葉時、若葉風、若葉雨と、ほんとうに多い。ということは、昔から日本人は目の覚めるような若葉の美に打たれ、若葉を、心から愛したのでしょうね。すごいっ! さすが紋ちゃん。若葉のつく言葉を調べてくださったなんて。日本人とはそういうものなんでしょうな。我が家は前、後ろの窓を開けると緑に染まっている光景が目に入ります。どこもここも緑と花で覆われているところなんです。> > あっしの家の、ネコびたいの庭でも、柿若葉なら、十分に見せてもらいましたよ。紋さんのとこは庭というものがあって、うらやましいわ。柿若葉が見られるなら、ネコのひたいではあらしません。> > あやさんは、古いものをよく書き溜めていて感心ですよ。かく言うあっしは、多作のせいか(^_-)、いちいち取ってはおかず、次から次へと粗製乱造しています。(-.-)> あります、あります、今日も書き溜めたものの「題名」を印刷してみたんです。載せているだけで、1000くらいの文章になります。もちろん、ブログをやっていたので、それらもありますが。全部でどのくらいあるか? その数を、いつか書き込んでみたいと思います。止めてしまおうと思っているのですが、心がお落ち着きません。紋さんの印刷して、一冊になさってみたらいかがですか。何冊もできるのでは。
あやさん、お久です。(^_-)> 友の振る手のしらじらと谷若葉> 初めてのメンバーで丹沢へ行った。朝から雨の寒い日であった。5人の予定がふた> りは来ない。山を登るのに雨だからとすっぽかすなんて動議に反する、行こう行こう、> なんて言いながら決行した。 谷若葉、いい言葉ですね。目の前に情景が浮かぶようです。で、いまネットで見ると、若葉の付いた言葉もケッコウ多い紋ですな。 いわく、里若葉、山若葉、窓若葉、柿若葉、椎若葉、樫若葉、樟若葉、若葉時、若葉風、若葉雨と、ほんとうに多い。ということは、昔から日本人は目の覚めるような若葉の美に打たれ、若葉を、心から愛したのでしょうね。 あっしの家の、ネコびたいの庭でも、柿若葉なら、十分に見せてもらいましたよ。 あやさんは、古いものをよく書き溜めていて感心ですよ。かく言うあっしは、多作のせいか(^_-)、いちいち取ってはおかず、次から次へと粗製乱造しています。(-.-)
男爵さんお読みいただいてありがとう!> > 尾瀬との初めての出会いは30年ほど前になる。今のようにツアーなるものなどな> > く、自分で計画を立て山小屋の手配をし、時間の管理、食料の準備、地図も手作りを> > 持った。> つまり> 約50年前の尾瀬行きですか。 そのころ私は....どこを登っていましたか? それともどこで潜っていましたか?> > > > 初めてのメンバーで丹沢へ行った。朝から雨の寒い日であった。5人の予定がふた> > りは来ない。> > 山登りの好きな伯母がよく登った山です。そうだったんですか。お会いしていたかもしれませんね。丹沢は庭みたいなものでした。どのくらい登ったことか。> > > 「この道でいいのかしら。」「ちょっとおかしいのでは。」「危ないからこの辺> > りで戻ろうか。」などと言いながら歩いているとき、小柄な彼女は健脚ぶりを発揮し> > て先を見に行ってくれた。> > > > だが、その彼女はもういない。去年の年が押し迫った日、プールの中で人と衝突し、> > 上がってからすぐ意識不明になり、一週間後に亡くなった。プールの日の前日、体操> > 教室で会ったが、相変わらずの活発さを見せていた。小さな体で歩き、踊り、泳ぎ、> > みごとな人であった。悔いなく生きた人生ではなかったかと思われる彼女。私もそう> > 生きたいと願ってはいるが……。> > プールやスキー場> あんがい人とぶつかることがあります。怪我で亡くなる人もたまにいます。そのようですね。こわいです。もう1人の知人がプールの中で死にました。人とぶつかったことではなく突然の死でした。
あやさん > > 初めてのメンバーで丹沢へ行った。朝から雨の寒い日であった。5人の予定がふた> > りは来ない。> > 山登りの好きな伯母がよく登った山です。> > > 「この道でいいのかしら。」「ちょっとおかしいのでは。」「危ないからこの辺> > りで戻ろうか。」などと言いながら歩いているとき、小柄な彼女は健脚ぶりを発揮し> > て先を見に行ってくれた。雨に煙る若葉の中で「だいじょうぶよ。」というように振> > る手が印象に残った。> > > > だが、その彼女はもういない。去年の年が押し迫った日、プールの中で人と衝突し、> > 上がってからすぐ意識不明になり、一週間後に亡くなった。プールの日の前日、体操> > 教室で会ったが、相変わらずの活発さを見せていた。養老先生の説「唯脳論」では唯物論や唯心論ではなく、この世のものは、すべて自分が目で見たり、耳で聞いたりしたものを、自分の脳で判断して認識するのだから自分の脳があるうちは、そのものもあると判断されるが、自分の脳がなくなると、そのものもなくなってしまう。めんどうなことはこれ以上書きませんが要するに、死んでしまった人は、その思い出をもつ自分の心の中に生きています。自分が死んでしまったら、自分の心にあった、その人の思い出もこの世からなくなるのです。死んでしまった人があの世に行くかどうなるかわかりませんが少なくとも、私が生きている間は、私の心の中に存在するのです。あやさんが思い出す人たちも、あやさんが生きている間は、あやさんの心の中にしっかりと存在するのです。
あやさん> 書き込みがないので、古い文章ですが引っ張り出しました。> 20年も前に書いたものです。お読みいただけたら幸いです。> > 谷若葉> > 女ばかりあやめの旅や尾瀬ケ原> 女性だけで尾瀬ケ原へ行った。少女の昔に戻って、わいわい、がやがや実に楽しい> 山登り(のつもり)になった。> > 尾瀬との初めての出会いは30年ほど前になる。今のようにツアーなるものなどな> く、自分で計画を立て山小屋の手配をし、時間の管理、食料の準備、地図も手作りを> 持った。> 今も山を歩く若者はいるのだろうと思うが、娯楽の少なかった私たちの時代の比で> はないだろう。> > その手作りの地図を広げて歩くコースをなぞっていたのを、大阪のテレビ局に取材> されたのは列車を待つ新宿の地下道だった。ライトが明るくたかれ、二、三度やらさ> れた。> まだテレビが白黒で珍しいころで、自分が映るのをうれしく思ったが、「東京では> 放映されません」と言われた。> よき青春の一ページとして、胸の奥にある。つまり約50年前の尾瀬行きですか。 そのころ私は....> 初めてのメンバーで丹沢へ行った。朝から雨の寒い日であった。5人の予定がふた> りは来ない。山登りの好きな伯母がよく登った山です。> 「この道でいいのかしら。」「ちょっとおかしいのでは。」「危ないからこの辺> りで戻ろうか。」などと言いながら歩いているとき、小柄な彼女は健脚ぶりを発揮し> て先を見に行ってくれた。雨に煙る若葉の中で「だいじょうぶよ。」というように振> る手が印象に残った。> > だが、その彼女はもういない。去年の年が押し迫った日、プールの中で人と衝突し、> 上がってからすぐ意識不明になり、一週間後に亡くなった。プールの日の前日、体操> 教室で会ったが、相変わらずの活発さを見せていた。小さな体で歩き、踊り、泳ぎ、> みごとな人であった。悔いなく生きた人生ではなかったかと思われる彼女。私もそう> 生きたいと願ってはいるが……。プールやスキー場あんがい人とぶつかることがあります。怪我で亡くなる人もたまにいます。
書き込みがないので、古い文章ですが引っ張り出しました。20年も前に書いたものです。お読みいただけたら幸いです。谷若葉 女ばかりあやめの旅や尾瀬ケ原 女性だけで尾瀬ケ原へ行った。少女の昔に戻って、わいわい、がやがや実に楽しい山登り(のつもり)になった。 尾瀬との初めての出会いは30年ほど前になる。今のようにツアーなるものなどなく、自分で計画を立て山小屋の手配をし、時間の管理、食料の準備、地図も手作りを持った。 今も山を歩く若者はいるのだろうと思うが、娯楽の少なかった私たちの時代の比ではないだろう。 その手作りの地図を広げて歩くコースをなぞっていたのを、大阪のテレビ局に取材されたのは列車を待つ新宿の地下道だった。ライトが明るくたかれ、二、三度やらされた。 まだテレビが白黒で珍しいころで、自分が映るのをうれしく思ったが、「東京では放映されません」と言われた。 よき青春の一ページとして、胸の奥にある。 鷺草の飛び立つ構へ風のなか 鷺草を私はこのときまで知らなかった。見たことはあっても、目に止まらなかったのかと思う。この日の尾瀬に咲く鷺草はすばらしく、緑一面の中で純白の姿を風に震わせて、今にも飛び立つ構えを見せている様は可憐だった。その小さな、かわいい鷺草と向い合った私はいっしょに小さな世界に入り込んだような心地がした。 その後見つけた街の鉢の中の鷺草には、尾瀬の感激はない。 美男にておはす大仏端午の日 どこの大仏様を見ても、私には美男に見える。そして、どっしりとしていて、いかにも男らしい。その上、優しさも表われていて、ますます男らしくしていると思うのである。 たまたま端午の日に、鎌倉の大仏様を見に行った。「美しい眉の下に、わずかに見開かれた穏やかな半眼。均整のとれた体にまつわる流麗な衣紋・・・。これだけ大きくても威圧感や気味の悪さが一つも感じられない仏像は珍しい。」と永井路子の『鎌倉の寺』に書かれている。その美しい大仏様に見ほれながら、世のお父さん、お母さんも自分の子を男らしくと願い、端午の日に鯉のぼりを泳がせ、強い男の人形を飾って祝うのかと、その心を思った。 乗り継ぎてまた麦秋の旅となる どこへ出たときか覚えがない。とにかく昔のことだったから。汽車の窓から見えたのは稲のような気もするが、どこまでも青く青く続き、それは大海原のようにも感じられた。小さな小さなホームで単線の小さな車両に乗り換えたが、とことこ走るその車窓には、またも麦畑が一面に広がっていた。その単線の線路は麦に埋まって見えないほどで、電車はかきわけかきわけ進むように思えた。どこへ行ったときなのか、なにが目的だったのか記憶にない。ただただ、麦畑が続いていた。 友の振る手のしらじらと谷若葉 初めてのメンバーで丹沢へ行った。朝から雨の寒い日であった。5人の予定がふたりは来ない。山を登るのに雨だからとすっぽかすなんて動議に反する、行こう行こう、なんて言いながら決行した。 やはり雨のせいか、山道でも小屋でもほとんど人に会わず、3人だけの時が多かった。「この道でいいのかしら。」「ちょっとおかしいのでは。」「危ないからこの辺りで戻ろうか。」などと言いながら歩いているとき、小柄な彼女は健脚ぶりを発揮して先を見に行ってくれた。雨に煙る若葉の中で「だいじょうぶよ。」というように振る手が印象に残った。 だが、その彼女はもういない。去年の年が押し迫った日、プールの中で人と衝突し、上がってからすぐ意識不明になり、一週間後に亡くなった。プールの日の前日、体操教室で会ったが、相変わらずの活発さを見せていた。小さな体で歩き、踊り、泳ぎ、みごとな人であった。悔いなく生きた人生ではなかったかと思われる彼女。私もそう生きたいと願ってはいるが……。
ラジオ深夜便 5月7日 川野一宇アンカー 「昭和歌年鑑〜昭和24年の流行歌」 ハバロフスク小唄 http://www.youtube.com/watch?v=6jd2aWuoG_Y三波春夫を思い出す。三波春夫はよくこの歌を歌って、辛かったシベリア抑留を語っていた。 国際法違反のソ連の仕打ちを決して忘れてはいけない。さて世界初の人工衛星に乗って「地球は青かった」と言ったガガーリンは札幌でのパレードでは大歓迎を受けました。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1273556242炭坑で育った私は5月のメーデーは労働者のお祭り赤旗、ソ連 などはお祭りのイメージと結びついています。ところが根室に行ったら、町をあげてソ連嫌い。なにしろ終戦に突然ソ連軍がやってきてそれまで住んでいた島から追い出され、祖父の代から今まで漁をしていた地域で魚や昆布を採ると強制的に拿捕されるのですから。 罰金を払わないと牢から出されない。同じ北海道でも、炭坑と根室では、ソ連に対する感覚が正反対。そこで、なにごとも先入観にとらわれてはいけないということです。 ○○は好きだ。 ○○は嫌いだ。 一度そう思うと絶対に思いを変えないのは、とらわれの人、つまり固定観念にとらわれたアタマの硬い人。 石頭かくあるべし、こうでなければならない。 一度そう考えたら決して考え方を変えない。ある種の○○学派といわれる人々を見ると、ああこの人たちは発展はもうないのだなと思ってしまいます。 自分が正しいと思うことは、どんなに辛くても苦しくても守るということは、信念という言葉で表されることもありますが。赤毛のアンも、ギルバートに「人参あたま」と言われカーッとなって石版で彼の頭を叩いてしまいます。ギルバートは悪人だ、嫌な奴と思っていたアンは、しかし、ギルバートがあとで彼女に貴重な教師の職を譲ってくれたことで、考えなおしします。お礼を言って、アンの感情は変わります。(もともと女の子に気のある男の子は、わざと意地悪するのも、相手をこちらに向かせたいから) しかも、マリラから、若い時マリラはギルバートの父と仲良しだったのに、ささいなことで喧嘩して、二人は結婚できなかったことを教えられます。マリラからしたら、アンがギルバートと仲良くするのは、マリラの夢を叶えることになるのです。さて多くの日本人が非難するソ連のした日本人捕虜のシベリア抑留ですが一人だけ評価する人がいます。それはシルクロード学者の加藤九祚(きゅうぞう)先生上智大学のドイツ語科の卒業なのに、学徒動員でそのためシベリア抑留の仕打ちを受けた。ところが、加藤先生のユニークなところは、辛かったシベリア抑留のおかげでロシア語が堪能になり、のちのシルクロード学者になるときロシア語の文献を読める数少ない研究者として大成したわけです。ただで外国留学できて、しっかり語学の基礎をつくることができたから、自分の学者の成功はシベリアに原点があったと思う。 それを聞いて180度の発想の転換を思い知らされました。
今日は8時45分に家を出て、障害者活動ホームへ行ってきた。午前中は男性と女性と3人でボールペンの組み立てをした。午後は男性と手をつないで、お茶の時間のためのカップ運びをした。30日に印刷所にメールで送った原稿が届いたという通知がなく、気になって出かける前に電話した。担当者はまだ出勤していなくて、あとで電話くれることになった。バスの中で電話が鳴ったが出られなかった。バスを降りてから電話したら、届いていないという。CCで送った私には届いていたのに。家に帰ってきてからでも送ってくだされば納期は大丈夫にしますとのことでそうすることにした。配送の練っていは部員たちと決めてあるので、崩したくないことにもよる。活動ホームで仕事が始まろうとした10時半ころ、保健の会の仲間からメールが届いた。昨日頼んでおいたことの返事だった。それというのは、地域での「体操教室」を区役所へ頼んでいたところ、日付がおかしくなったのだ。担当者は転勤となってしまっていたため、こんなことになったのだ。会場の取りなおしをしなければならずで、その回答が彼女のメールだったのだ。会場が取れたということで、区役所へ電話をした。そんなところへ夫からの電話が入った。区役所の2人の女性から電話が入ったという。1つは留守番電話で、それを聞かせてくれたが、健康チェックの依頼のようだった。再度区役所へ電話、高齢者関係の係からだったようだ。でも本人はいなかったのか、電話はなかった。区役所へは2度のでんわになった。活動ホームの終わりは、15時40分ころになるのだが、帰りの会には参加せず、15時20分ころそこを出た。家に飛んで帰って、印刷所へメールで送った。しばらくして届いたとう電話での返事。「これから作業をします」とのことだった。1時間もしただろうか、「おかしなところがあります。12月9日(日)とありますが、(月)ですよね」私はあせった。丁目の「たより」からのものだったので、そのまま載せてしまったのだ。12月8日の間違いとわかった。あわてて、原稿を修正した。マイクロソフトのパブリッシャス2010というソフトで組み込んでいる。修正して、PDF化して送った。しばらく時間がかかった。また、1時間ほどかかって、印刷所から電話が入った。「これでやります。納期はそのままでいたします」と言ってくれた。深くお詫びを言ったが、なんとも申し訳なさでいっぱいだった。16時ころ帰ってきて、パソコンに向かったり、電話に向かったりの時間は長かった。今日の1日の出来事の内容は、「広報」「胃がん検診」「健康チェック」「体操教室」それに、「健康チェックの依頼」とこんなにも多かったのだ。この時間、解決しないのは「健康チェックの依頼」のこと。担当者が留守だったのか電話がこない。連休明けになるのだろうかと思っている。なぜか夫の帰りが遅いので、こんなことしていられる。食事の支度しなければ!何を書いているのか、わからなくなってしまった。お許しあれ<(_ _)>