画像サイズ: 599×660 (68kB)> 宇治の源氏物語ミュージアムに行って、源氏物語の勉強をしてきました。> http://www.uji-genji.jp/旅の帰り道東京の上野の国立博物館で日本国宝展が開催されて 源氏物語絵巻の柏木を見ることができました。柏木は見舞いに訪れた夕霧に、源氏に対する取りなしと正室落葉の宮の後見を頼みこの世を去る。http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/06/obj03.htmlこちらの絵は大きくてよくわかります。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E%E7%B5%B5%E5%B7%BB#mediaviewer/File:Genji_emaki_Kashiwagi.JPG博物館の展示では、人がいっぱいで展示物になかなか近づけない。しかも、実物は小さいし暗くてよく見えない。
画像サイズ: 695×735 (70kB)> 宇治の源氏物語ミュージアムに行って、源氏物語の勉強をしてきました。> http://www.uji-genji.jp/貴族の女性たちも書道、和歌、音楽など多くの教養を身につけることが必要だった。幼いときから知的な遊戯をした。さてあなたはいくつ漢字を作られますか。頭の体操になります。
画像サイズ: 650×488 (58kB)宇治の源氏物語ミュージアムに行って、源氏物語の勉強をしてきました。http://www.uji-genji.jp/源氏物語の登場人物の名の由来 柏木と落葉の宮 二人の名前は彼らのエピソードから 柏木は望まぬ妻を迎えさせられ、「落葉」を拾わされたと落胆。 落葉の宮は夫(柏木)の死後、守り神が宿るとされる、庭の柏の木を頼みに暮らす。 夕霧 光源氏の息子の夕霧は、病で死ぬ柏木にあとを頼むと言われたので 柏木の未亡人の落葉の宮のもとに通ううち、奥ゆかしい彼女にひかれるようになる。 しかし、良い返事は得られない。 あきらめきれない彼は、霧が立ちこめるからと、一夜の宿を所望する。 けれども、落葉の宮にかたく拒まれ、深い霧につつまれたまま朝を迎える。 雲居雁 夕霧の妻の雲居雁も、悲しい名前だった。 二人は幼なじみで、将来を誓った筒井筒の仲。 (夕霧の母の葵の上と雲居雁の父の頭中将は兄妹なので、二人はいとこ同士) 父は娘を帝の妃にという願いがあるため、夕霧との結婚を許さず 泣く泣く引き離されてしまう。 晴れ間のない雲の中を飛ぶ雁に、みずからの心境を重ね合わせて嘆いたから 彼女の呼び名は雲居雁となった。 のちに父親から許され、はれて夕霧と結ばれ幸せな家庭生活をおくるのに 真面目人間の夕霧が突然、落葉の宮のもとへ通うので夫に愛想をつかし 子どもを連れて実家へ帰る。夕霧は母親の実家の祖母のもとで育てられるから亡き母の兄の頭中将の子どもの柏木と雲居雁たちとは幼なじみのいとこ同士ということになります。長い間待ってやっと初恋の雲居雁と結婚でき幸せだった夕霧が従兄の柏木が死ぬとき、妻を頼むと言われたのを真面目に受け止めたのかあるいは柏木が落葉の宮と呼んだ(決して愛していなかった)未亡人の魅力にとらわれたのか、がぜんややこしくなります。柏木が落葉の宮に熱意をもたなかったのは、彼はその妹の女三宮を妻にしたかったから。だが女三宮の父親の帝の朱雀院が認めなかったから実現不可能。可愛そうな息子のため柏木の父親が朱雀院に頼んで姉の落葉の宮を妻とすることができたのだが。女三宮は、父朱雀院の考えで光源氏の妻となるのだが二人の年齢の差は大きく、源氏にとって女三宮は幼すぎ。そして、柏木はなお女三宮をあきらめきれず、とうとう悲劇が始まる。源氏は、はじめは兄帝朱雀院から頼まれても、はなはだ気乗り薄だった。もう年も年で「今さら」ということと、六条院には、紫の上と明石の君がいて、ようやく明石の姫君が橋渡しとなり、育ての母と産みの母とのこころが通いあう仲となってうまくいっていたところ。そこにまた、新しい女の登場で女の世界の葛藤の原因をつくるのはうんざり。一応固辞するのだが、あの藤壷の妹が女三の宮の母であるということから、恋しい藤壷のおもかげを伝えているかも知れないと、心が動く。なんと心憎い作者の配慮。源氏が簡単に断れないようにしている。なんとなくわかっていた登場人物のエピソードが宇治に行ってよくわかりました。写真は、京都タワーからの夜景。本文とは関係ありません。 失礼しました。(京都タワーでデートしている若い人たちの中にも、現代の夕霧や雲居雁がいるのかもしれない)
今日は区民祭りが広い広い四季の森公園という所で行われた。健康チェックも行われた中で、COモニターを担当した。我が地からは2人の参加だったので、彼女と同じバスで行くことにした。我が停留所では8時27分で、彼女が乗るのは8時25分。どういうわけか、この前のバスが遅れたらしく、彼女は20分頃のバスに乗ったようだ。そんなことで、私がバス停に着いたときには、その遅れのバスは出たところだった。ところが27分のバスも来ないで、バス停は20人もの人が並んだだろうか。先頭にいた私に、顔見知りの女性が「どこが一番後ろ!」など言われたほどだった。やがてやってきたバスはバス会社が違っていた。終点から2つ目の停留所で満員というほどになるなんて初めてと思うほどだった。そして4つ目にある駅へ着いた。そのバスが着いたところに一緒に行く彼女が待っていてくれた。彼女の乗ったバスも時間がおかしく、そのあともおかしかったことを話しあいながらホームへ向かった。電車に乗ったがガラガラだったので、「次降りるけど座りましょうか」で座った。バスの遅れのことや、会場への行き方、次回行われる福祉祭りのことなどなどが盛り上がった。「あっ、降りなきゃ」と彼女の声にハッと窓の外を見た。「あー出ちゃう!」と悲鳴に似たような声をあげた私。2人で立ち上がった時にはドアは閉まりかけていた。少し若い彼女は閉まりかけたドアの外へ飛び降りた。私は更に閉まるドアをやっとすり抜けて飛び降りた。とたんドアは閉まった。あまりにも話が山済みだったため、楽しかったため、それに夢中になって降りるのを忘れたなんて! 「2度もおかしなことがありましたね。2度あることは3度なんていうけど、もうなにもないといいですね」なんて彼女。それからが大変だった。駅から15分ほどはかかる公園、健康チエックの会場までは更にかかる。ましてや昨年も参加したとはいえ、真っ直ぐ行けるかどうかわからない。小高い山のようになっているところを、走るようにして歩いた。最後には息が切れるような状態になった。何とか集合時間の9時30分には着いたが、すでに会場の準備は出来ていて、役所の職員、各地の健康チェック担当(30名くらい)は集まっていた。そんなことで、遅れてはいないが、遅れを取ったこと、走るように歩かねばならなかったことが3度目となるかと思った。終了して、電車に乗らずバスいっぽんで帰ろうということになり、そのバスが出る時間まで30分くらいあったか、そんなことで、バス停のそばにのKFCへ入り、フローズンパフェというのを食べながら語らった。それはそれは楽しい一時となったことはいうまでもない。3度の失敗? 不幸な出来事? があったが、4度目に幸福な気分に浸れたことを感謝した。家に帰ってきてからは大変だった。電話をかけまくり、次回行われる福祉祭りの参加者をとりまとめ、名簿を作成。広報の打合せが明夜あるので、ソフトで作成した新聞の一部修正を行った。なんと時間を有効に使った1日だったか! 更にこのように書き込んでいられることに感謝したい。明日も朝から夜まで留守にするので、この辺で食器を洗って、お風呂に入って、パズルを少しやって寝ます。
> > 浜松にある楽器博物館浜松市楽器博物館だより No.89 「風が鳴らす楽器」ここにおもしろい楽器が紹介されています。 インドネシアの「スナリ」 やや太めの竹の胴に○や△あるいは十の穴を開け、この竹に風が当たるとその部分が笛の役目をし、かすかな「ヒュー」、「ボー」という音が発せられる。 たくさんの人でハミングするような音が、上空から鳴り響く。http://www.aar.co.jp/parinoinaka.htmlエオリアン・ハープ(Aeolian Harp)は木の箱に弦が張られていて、窓際に置くと、自然に吹く風により音を鳴らす。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%97日本の風鈴も、軒先に吊しておくと、風が吹いて短冊が揺れ「チリチリーン」と涼やかな音が出る。 風も立派な演奏者 !
画像サイズ: 730×548 (64kB)> > > 国立民族学博物館は大阪府吹田市の万博記念公園にあります。> > >民族学・文化人類学を中心とした研究・展示を行っていますが、さまざまな研究スタッフがいて、それらの研究者の著書は多いです。> > これは> 民族博物館の展示みたいですが> 浜松にある楽器博物館の展示であります。> > 展示されているのは民族楽器なのです。これも。東南アジアや中南米の民族楽器のほかにオセアニア、アフリカなどの民族楽器も展示されています。
画像サイズ: 700×525 (76kB)> > 国立民族学博物館は大阪府吹田市の万博記念公園にあります。> >民族学・文化人類学を中心とした研究・展示を行っていますが、さまざまな研究スタッフがいて、それらの研究者の著書は多いです。これは民族博物館の展示みたいですが浜松にある楽器博物館の展示であります。展示されているのは民族楽器なのです。たとえばオカリナや尺八も民族楽器ですから。
(2) 再び、「書簡集」に戻る。父を早く亡くし、当時18歳だった小プリニウスは何日も連続して地震の頻発する街(ミセヌム☆)で叔父の家の世話になっていた。当日叔父は友人から救援の要請を受け、災害地へ向かって出掛ける。彼は叔父が出かけたまま、不帰の客となるのも露知らず、危険な地へと叔父を送り出す。 その後、落ち着いて読書に熱中するのだが、しばらくして叔父の友人がやってきて、危険だから早く逃げるようにと、少年を叱咤する。そのうち、町は避難する人でごった返し、阿鼻叫喚の巷と化し、彼は灰の降る中を老母の手を引き、必死で安全地帯へと逃げ出す。流言飛語も盛んに飛びかう。その内、濃い霧も晴れ、二人はミセヌムの自宅へと戻ってくる。 ☆ミセヌムは現ミゼーノ。人口は一万に満たず、数千人くらいかと思われる。ナポリ湾のミセヌム岬の突端にあり、地図ではイスキア島に近い。壊滅したポンペイはむしろ、ミセヌムより東の、サレルノ湾の方に近いように思われる。 噴火による埋没は、GRUEさんも談話室にお書きになっているようだが、天明3年の大噴火も有名だそうである。つまり、金子氏によると、埋没はポンペイの悲劇にとどまらず、エル・サルバドルのホセ・デ・セレン、フィリピンのピナトゥボ、また我が国にあっては、上記の浅間山や、榛名山によるものなど、いくつもある模様である。 ここで、思い出したのだが、たしかGRUEさんが文集の部屋に書いておられたと思うが、野上弥生子さんが、ポンペイをみて、浅間を想起したというのは、ひょっとすると、天明の噴火を意識してのことだったろうか。ならたしかにスゴイことだが、本文ではたださらりと書き流している風なので、あっしには、特にあの噴火を意識していたとは思えないのである。 ところで、中途半端ではあるが、この項は、これで終わります。
(1) ゲーテは文豪と呼ばれ、一般に文の人であったと認識されているようだが、本人は「色彩論」を著し、色彩についてニュートンの説に反対する態度を表明している。光学についてのプロフェッショナルである株式会社ニコンのHPで、電気通信大學の小林教授が、ゲーテの仕事を大いに評価しているのを発見した。さらに、氏は 上で触れたゲーテの研究から、スーラのポアンティリスムを代表する「グランド・ジャット島の日曜日」などの作品が生まれたとしている。 あっしは、理科方面はまるで紋外漢で、説明はこれ以上はムリだが、上記は専門の科学者の言説なので、ただ鵜呑みにするばかりである。(-.-) 色彩論については、これで打ち切り、そろそろ本題の『ヴェズーヴィオの噴火』に移りたいと思う。鉱物などにも、普通以上の関心を持っていたゲーテは、ヴェズーヴィオに二度登ったとあっしは書いたかもしれない。しかし、今読み直してみると1787年3月20日に、なんと3度目の登山を敢行しているのだ。 普通は一度で済ますはず。学者的な研究心からか、それとも単に好奇心が人一倍強かったのか。異常と云えば異常だ。溶岩の流れ出すところが見たいと云って、上まで上がったはいいが、足下の地面はますます熱くなり、呼吸も困難になって来る。視界も悪くなり、強力に促されて一応降り始めるが、やはり諦められず、今度は他の峰に移動し、洞口をゆっくり観察、その状態を「鍾乳石様の物質ですっかり張りめぐらされていて、その物質は乳頭状や球果状をなして、」などと事細かく観察している。これは物見遊山の観光客の好奇心というより、調査に当たる科學者の研究態度などに似ていないだろうか。 ここであっしは敬愛するゲーテとは決別し、古代ローマのプリニウスへと移る。なにしろ、ポンペイと云えばプリニウスは、逸すべからざる人物である。ゲーテのものは、日付や観察の結果を逐一書きとどめているので、貴重と云えば貴重な記録資料ともいえるが、こちらは、そもそも2000年も前の巨大噴火に言及しているので、その価値ははるかに大きい。 あっしが初めて見たポンペイを扱った本では、岩波の写真文庫で、これは小冊子(新書版より一回り大きいくらい)ではあるが、表紙を含め、全ページにモノクロ写真が入り、解説もまた行き届いていて、非常に好い本だと思う。表紙。裏表紙を広げると、そこにはヴェズーヴィオ門からみた廃墟の有様が見て取れる。そこには正に『死都』の雰囲気が濃厚に漂っている。 本の表題もショッキングである。「死都ポンペイ」という。ポンペイの栄えた時代は古代ローマなので、キリスト教はまだ入らず、イシス(神殿がある)や、ディオニュソス(バッカス)、ヴィーナスなど多神教の時代だった。各人が自由にご神体を選び、いわば念持仏、としていたようだ。 出土したものには、奴隷の、地に這いつくばった焼死体もあり実に気の毒だが、親子の折り重なって、息絶えた遺骸なども涙を禁じえない。そのあと、「花を摘むプシケー」の愛らしい壁画に出会ったりすると、ホッとする。 ところで、プリニウスには二人あり、あっしの取り上げるのは小プリニウスのほうである。紛らわしいので、ふつう博物誌の方で著名な叔父の方を、大プリニウス、甥の方を小プリニウスと呼び慣わしているようである。政治家でもあり、文人でもあった小プリニウスの書簡集には有難いことに邦訳がある。全部で400ページにわたっているが、全10章の内、表題に関係のありそうなのは、第3巻「4大プリニウスの生涯」と第6巻「12叔父の最後」「15ウェスウィウス火山の噴火」くらいのものか。 この書簡は、のちに歴史家となった友人のタキトゥスの依頼で書いたと云われているが、その記述にどの程度の信頼性があるのだろうか。噴火の記述は、すべて彼の実見談ではなく、叔父の従者の記憶と、当時の公的な記録をないまぜにしたものらしい。日付も欠けている様で、今日的な見地から云えば、多少資料的価値は下がる。しかし、他にこの種の記録がマッタク残っていないのだから、やはり貴重だと云える。 それを裏付けることが一つある。それは、今日の火山学でこの種の噴火を『プリニー型噴火』というが、これは小プリニウスに因んだものである。なお、この詳細については、金子史朗氏の「ポンペイの滅んだ日」に詳しい。(つづく)
画像サイズ: 800×600 (69kB)> > > > > > > > > > > 前回残した写真を紹介します。これはインドネシアの影絵です。前にも少し紹介しましたがこんなにたくさん展示されてありました。このシリーズはいちおうこれでお終いにします。長い間のご愛読ありがとうございました。