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[No.7957]
Re: 急がしい急がしい
投稿者:まや
投稿日:2017/10/25(Wed) 07:55
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男爵さん & みなさん、お早うございます。
> その中で「急がしい」という語句を指摘され、笑われたそうです。
>
> ところで、
> 福地順一:「石川啄木と北海道−その人生・文学・時代−」補遺
> のなかに下記の文章を見つけました。
>
> ...どうも急がしい、今月から三日に一晩の夜勤、それに歌の選、まるで暇がない。歌壇は莫迦に景気が可い。
> 「弓町より」 函館日日新聞 明治43年11月3日
>
> これは、啄木からの私信を、宮崎郁雨が函館日日新聞に紹介したようです。
> そして、新聞に掲載されたことで、宮崎郁雨が啄木に原稿料という名目で金銭的便宜を図っていたのではないかと著者の福地順一は推察するのです。
>
> この啄木の文章の前の方にも
> ...二葉亭全集の二巻も来月の初めに売出すので、今が一番急がしい。もうすぐ三巻の原稿整理に図書館通ひを仕なくちゃならない、ホントに一日寝て見たいものだ。
> とあります。
>
> 啄木は「急がしい」と書いていた。
> 当時は、「忙しい」も「急がしい」もあったのでしょうか。
>
> これらの文章は啄木全集の書簡集に載っているそうです。
私たち文章を扱う者は、このような間違いの文を引用するときには
「(まま)」という書き込みを添えることがあります。
私の狭い知識の範囲では昔から「忙しい」を「急がしい」と書くよ
うなことはなかったようで、これは間違いをそのままにしておいたも
のだろうと思います。
まや
[No.7956]
タブレット
投稿者:男爵
投稿日:2017/10/24(Tue) 05:40
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[No.7955]
群馬県庁は前橋
投稿者:男爵
投稿日:2017/10/23(Mon) 16:51
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八幡和郎:消えた都道府県名の謎
https://www.amazon.co.jp/%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E9%83%BD%E9%81%93%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E5%90%8D%E3%81%AE%E8%AC%8E-%E6%84%8F%E5%A4%96%E3%81%A8%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%80%8C%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%88%90%E3%82%8A%E7%AB%8B%E3%81%A1%E3%80%8D47%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E6%96%B0%E6%9B%B8Q-%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%92%8C%E9%83%8E-ebook/dp/B01MQ0HMWP
前橋にも高崎にも城があった。
その城のあるところは旧群馬郡だった。
群馬県ができたいきさつは、色々な歴史的経過があるのだが
それは省略します。
さて、群馬県令の楫取素彦(かとりもとひこ)は、妻が吉田松陰の妹だった。
群馬県庁は高崎に置かれるはずだったが、陸軍に高崎城を奪われたため、前橋城に移った。
県庁は高崎だったが適当な施設がなく、前橋城に移ることになった。
楫取はこのとき、前橋移転は一時的なものだと高崎市民に約束したが、前橋では市民有志が官吏の住宅などの施設整備に寄付をして引き止めを図った。
前橋では恩人、高崎では敵(かたき)扱い。(こうこの本に書いてあるが、群馬県人の心境はいかに)
利根川の水害で前橋城が削り取られ危険な状態になったから
前橋藩主は川越城に移った。
生糸の集散地として経済力を増していた前橋の人々は多大な寄付をして
前橋城を修理し、大政奉還の年に殿さまを呼び戻したばかりだった。
それがムダになってはという執念が県庁誘致の原動力になった。
運動の中心になった前橋城下の大商人下村善太郎は、移転資金を供出して新庁舎を用意できれば県庁誘致が可能であると聞いて、みずから1万円を寄付し市内の富豪たちから金を集めた。
下村は大火などの被災者の救援、教育、産業、交通、防災など多くの分野の充実に私財を出して初代市長となった。
前橋にある臨江閣というかつての迎賓館は楫取素彦の提案で建設された施設で、下村はその建設にあたっても多額の寄付をしている。
北陸新幹線と上越新幹線は、高崎で別れる。 前橋より高崎のほうが交通の便がよいのにと私はいつも思っていたが、こういう歴史があったのですね。
さて
ここまで読んで
話は脱線するのですが
はて 臨江閣(りんこうかく) この名前は あのイムジン河にでてくるのではなかったか?
http://duarbo.air-nifty.com/songs/2007/02/post_5992.html
イムジン河は漢字で書くと「臨津江」
利根川に臨んだ場所に建てたから臨江閣
「臨津江」の津は湊の意味で、直江津や焼津などに残ります。
三重県庁のある津市も臨海都市ですね。
臨津閣(イムジンガク)
38度線の軍事境界線付近を見渡すことのできる展望台
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A8%E6%B4%A5%E9%96%A3
[No.7954]
急がしい急がしい
投稿者:男爵
投稿日:2017/10/19(Thu) 18:54
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ある人が
伯父に手紙を書いたら
その中で「急がしい」という語句を指摘され、笑われたそうです。
ところで、
福地順一:「石川啄木と北海道−その人生・文学・時代−」補遺
のなかに下記の文章を見つけました。
...どうも急がしい、今月から三日に一晩の夜勤、それに歌の選、まるで暇がない。歌壇は莫迦に景気が可い。
「弓町より」 函館日日新聞 明治43年11月3日
これは、啄木からの私信を、宮崎郁雨が函館日日新聞に紹介したようです。
そして、新聞に掲載されたことで、宮崎郁雨が啄木に原稿料という名目で金銭的便宜を図っていたのではないかと著者の福地順一は推察するのです。
この啄木の文章の前の方にも
...二葉亭全集の二巻も来月の初めに売出すので、今が一番急がしい。もうすぐ三巻の原稿整理に図書館通ひを仕なくちゃならない、ホントに一日寝て見たいものだ。
とあります。
啄木は「急がしい」と書いていた。
当時は、「忙しい」も「急がしい」もあったのでしょうか。
これらの文章は啄木全集の書簡集に載っているそうです。
[No.7953]
お由良殺人事件
投稿者:男爵
投稿日:2017/10/18(Wed) 18:38
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推理小説です。
推理小説の解説はむずかしい。
犯人のヒントなど書こうものなら、これから読む人に恨まれそう。
最近、まるこさんから西郷隆盛の本を送ってもらったのです。
来年の大河ドラマは西郷隆盛なのです。
西郷隆盛は島津斉彬のもとで活躍した。
島津斉彬は名君だった。藩の富国強兵に努め,洋学も積極的に受け入れた。(西郷など若い武士たちは斉彬を尊敬していた)
だが斉彬には異母弟がいた。その母親お由良はなんとかわが子久光を藩主にしようと工作をしたから
島津斉彬はなかなか藩主になれなかった経緯がある。
島津斉彬の母は正室、それに対して久光の母お由良は妾だった。
(正室は江戸に住んでいたため、鹿児島での妻役お由良がしていた)
島津斉彬の母が早くに亡くなってしまったため、彼のうしろだてがなく、お由良の暗躍でなかなか藩主になれなかった。
島津斉彬が藩主になると、弟久光は藩主になれないから。
江戸では、次期将軍をめぐって
一橋慶喜を推す一橋派と、紀州藩主徳川慶福(のちの家持)を推す南紀派が対立していた。
西郷は一橋派の斉彬の命で京都に上っていたとき、斉彬の突然の訃報を聞く。
西郷をめぐる歴史的な話は深入りすると話の方向がはずれるので、ここらでやめます。
さて、推理小説のほうですが
推理小説の作家は、久光の母お由良が島津斉彬の暗殺をしたということにして
話を進めています。
島津斉彬は暗殺されたのか、たんなる病死なのか、それは歴史家の調査するテーマですね。
(明治天皇の父親の孝明天皇も急死したのですが、会津の人たちは今でも孝明天皇は暗殺されたと思っているようです。孝明天皇が死んだので,会津には逆風が吹いてしまった)
しかし、こういう歴史の話題をうまく取り入れて、推理小説にするのは
巧みというか、なかなか感心します。
この作家は坂本龍馬の暗殺は誰が黒幕かということで
別の推理小説を書いています。
坂本龍馬暗殺も、誰が何の目的で行ったのか諸説があります。
公式には見廻組の今井信郎たちがしたことになっていますが....
[No.7952]
図書館で
投稿者:男爵
投稿日:2017/10/15(Sun) 18:41
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[No.7951]
コミック版 世界の伝記 エカチェリーナ2世
投稿者:男爵
投稿日:2017/10/09(Mon) 08:25
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画像サイズ: 645×908 (85kB)画家: 迎夏生
監修: 石井 美樹子
コミック版 世界の伝記 エカチェリーナ2世
http://www.ehonnavi.net/ehon/115706/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E7%89%88%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%A8%98%E3%82%A8%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A2%E4%B8%96/
エカチェリーナ2世のコミックは、いくつかあるようだ。
ドイツの貴族がロシアの女帝となる。
ヨーロッパの王室は国際結婚が多いみたい。
ヴィクトリア女王も、父はイギリス人だが、母はドイツ人だった。
ヴィクトリア女王の夫は、自分の母親の実家から迎えたからドイツ人
だから彼らの子どもたちは3/4はドイツ人の血。(血統にこだわるなら)
エルミタージュ美術館は
エカチェリーナ2世が外国から買い取った美術品を収蔵するため宮殿の隣に別館を建てたことからはじまる。
エカチェリーナ2世は、自ら天然痘予防のため種痘をロシアで初めて受ける。
彼女は、遭難してロシアに連れてこられた大黒屋光太夫と面会し、日本への帰国を許可する。
このエカチェリーナ2世の肖像画は
大エルミタージュ美術館展
2017年3月18日(土)−6月18日(日)
森アーツセンターギャラリー(六本木ヒルズ 森タワー52階)
にあった絵です。
この絵のみ撮影可能でした。
[No.7950]
熱海まで行った尾崎紅葉
投稿者:男爵
投稿日:2017/10/09(Mon) 07:54
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> 当時の東海道線は、御殿場線だったから
> 国府津(こうづ)−御殿場−沼津 のルートだったのです。
> 東海道線 新橋〜神戸 明治22(1989)年開通
> 軽便鉄道からランクが上がり、丹那トンネルも開通として
> 東海道線が新しく 国府津−熱海−沼津 列車が走ったのは 昭和9(1934)年
>
> 金色夜叉の貫一とお宮は、どうやって熱海までいったのか?
> まじめに調べている人がいます。
佐藤喜一:鉄道の文学紀行 中公新書1830
一度読んだことがある本 改めて借りてきました。
金色夜叉が読売新聞に連載を始めたのは,明治30年1月1日から。
有名な熱海の夜が「1月17日」
この夜を明治30年としてよいかはさておき、と著者は推理をはじめる。
新橋から国府津までは鉄道があった。
国府津から小田原までは鉄道馬車。 これは明治20年10月から走り始めている。
小田原からは豆相人車鉄道 明治29年3月に全通。
だから、金色夜叉の主人公の貫一もお宮も豆相人車鉄道に乗ったであろう。
> 豆相(ずそう)人車軌道というのがありました。
> それならと、小田原−熱海 ここに人車軌道ができたのは 明治29(1896)年
> 押し手の人件費もかかるし、効率が悪いというわけで
> 機関車をつかうことになった。
> 念願の動力化と改軌道改修工事が完了したのは明治40(1907)年
尾崎紅葉は明治36年に死んだから、金色夜叉の主人公たちも熱海までの軽便鉄道は知らなかった。
ところで尾崎紅葉は熱海に行ったのだろうか。
この著者はそれも調べている。
明治26年2月、紅葉は硯友社(けんゆうしゃ)同人の石橋思案と熱海まで旅に出た。
小田原から,まだ二十代だった二人は、徒歩で熱海に向かう。
途中の吉浜(湯河原)で一泊し、翌日に熱海に着いた。
[No.7949]
日本三大疏水の父 南一郎平
投稿者:男爵
投稿日:2017/10/08(Sun) 19:03
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いやー まいった、まいった。
宇佐学マンガシリーズ第5弾「日本三大疏水の父 南一郎平」
http://www.usa-public-library.jp/news160315.html
安積疎水は、お雇い外国人オランダ人ファン・ドールン
琵琶湖疎水は、東大(工部大学校)を出たばかりの田辺朔郎
など
代表者の名前で、土木技術史に記録されているが
現場で実際に泥だらけ、汗まみれの仕事をした人たちは
南一郎平ひきいる技術者集団だった。
それはそうだろう。
明治になって洋風建築が盛んに建てられるようになったが
実際は大工が見よう見まねで独特の建物を立てていったのを見ても
大学での理論と現場の実際の技術とは距離があるのだ。
明治になって西洋の工学技術がすみやかに日本に定着していったのは
それ以前の技術の歴史があったからこそ、その上に発展もあったのだ。
−−−−−
松方正義は、南一郎平の能力と業績を認め、南がよい仕事ができるよう支援した。
明治3年にファン・ドールンが招かれた。
彼は協力者としてオランダから
ジョージ・アーノルド・エッシャーとヨハンニス・デ・レイケを呼ぶ。
エッシャーは学歴のないデ・レイケの人柄とその高い技術力に感心し、
日本政府にデ・レイケの給料を上げるように働きかけた。
その結果再契約の時、デ・レイケの給料は400円になった。
エッシャーは帰国したが、デ・レイケは日本に残った。
明治13年松方正義はデ・レイケに会って、山の木を切るな
という主張を聞いて
誠実な人柄や技術やものの考え方に感銘を受けた。
やがてデ・レイケは勅任官になった。
これは天皇から任じられた官吏で、技術者としては最高の地位になった。
四国脇町の大谷川(吉野川支流)の堰堤は明治19(1886)年
デ・レーケの作。
デ・レイケが60歳の時、日本を離れる。
山県有朋は彼の誠実さと正直さを高く評価し
彼に日本政府は5万円(現在の金なら4億円相当)の退職金を贈ったといわれる。
[No.7948]
フトオアゲハ
投稿者:男爵
投稿日:2017/10/07(Sat) 04:51
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さて
話は変わって昆虫少年の話です。
> 当時の昆虫少年たちにとって、平山修次郎は伝説的な人だった。
> 平山の『原色千種昆虫図譜』は手塚少年のバイブルとなった。
>
> 特に手塚少年はそこに載っていた“フトオアゲハ”という蝶に魅せられた。
“フトオアゲハ”といえば
以前に紹介した
北杜夫:「谿間にて」
幻と消えたフトオアゲハ
http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/11-bungei/wforum.cgi?no=7941&reno=no&oya=7941&mode=msgview
覚えていたでしょうか。
北杜夫も手塚治虫も
「バカの壁」の養老孟司先生もフランス文学者奥本大三郎先生も
(そして私も)みんな昆虫少年だった。
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