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[No.7040] 思い出すままに 大森時代‐1 投稿者:あや  投稿日:2015/05/13(Wed) 17:26
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投稿が少ないので、憂いています。
みなさま、どうぞ投稿をよろしくお願いいたします。

今日は古い、古い自費出版の「私の歳時記4」の中から、引っ張り出してみました。


思い出すままに ‐大森時代‐

田舎から戻って

 戦争のため、家は強制疎開となり、移った家は空襲で焼けた。そのあと新潟の長岡に
ある祖母の実家へ居候し、終戦の翌年に、父が住んでいた東京太田区の家に帰ってきた。
なぜ、ここへ住まいを移したのかわからないが、以前の住まいが、やはり大森だったこ
とと、父の勤め先があったことによるのだろう。
 家は、小学校と道を隔てた路地の二軒目にあった。道側は八百屋で、反対側は突き当
りで、垣根の向こうには大きい空地が広がっていた。
 その空地は、子どもたちの遊び場になっていて、凧揚げもできるほど広かった。冬に
なるとそこには海苔が干された。また、隅には池がありボートが浮いていた。なぜそん
なところに浮いているのか、疑問だったが乗る人はいなかった。子どもたちは、長い竿
であちこちへ動かして遊んだ。


校長先生

 小学校の敷地の正門の横に、校長先生の家があった。先生にはこの小学校の私より下
級生の息子がいた。
 何年生のときだろう、「息子と遊んでやってください」と転任してこられた校長先生
に言われて、よく遊んであげた。それも、家に行くのである。大きな家で、応接間があ
り、紙芝居がたくさんあって、家の中で遊んでも飽きることはなかった。それに、おや
つが魅力でもあった。
 遊んでいるときに、しゃれた服を着たお兄さんがぶらりとやってきてしばらくそばに
いたりした。その格好を見て、普通ではないものを感じたのだ。生意気なもので、「校
長先生も苦労しているな」なんて、思ったりしたものである。
 下級生の男子はおとなしく、私の言いなりになっていた。遊んでもらえなくなったら
困ると思っていたのか、少々意地悪しても、決して先生には言わなかったようだ。私の
口止めを守っていたのだろう。「言いつけたら、遊んであげない」と言ったのである。
 その中でも、応接間で、紙芝居をやってあげたことと、庭の片隅に、野ざらしにされ
ていた木の風呂桶の中に入ったり、出たりを繰り返したことを鮮明に覚えている。
遊んだのは毎日のことではなかったが、それにしても、なぜ、二人きりで遊んだのだろ
うと、今でも不思議に感じる。


[No.7041] Re: 思い出すままに 大森時代‐2 投稿者:あや  投稿日:2015/05/13(Wed) 17:36
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思い出すままに 大森時代‐2

男装の麗人

 家を出て、右に曲がって少し歩いたところに、小学校の正門があった。その前の文房
具屋が、「しょうしんどう」という名前だった。どんな字を書いたのか覚えていない。
そのしょうしんどうの鈴ちゃんとは学校友だちだった。
彼女のおばさんに当たる人は、宝塚から抜け出たようにスタイルがよく、男のような断
髪で、ズボンを穿いて闊歩していた。いっしょに住んでいた人は長い髪を持った、スカ
ートの似合う人だった。二人が並んで歩く姿は絵になっていた。
 その当時は、レスビアンなどという言葉は知らなかったが、子ども心に、女同士の夫
婦みたいに思った。窓が開いているときに、二人が結婚写真のように写っている写真立
てを見ることができた。子どもたちは、何やかやと理屈をつけては様子をのぞきにいっ]
た。二人は困ったような顔を見せるときもあった。


二人のK先生

 小学校は目の前にあったが、中学校は二十分ほども歩いたところの海岸近くにあり、
対岸には羽田空港があった。付近に人家はなく、広い広い空地に学校がぽつんと建って
いるだけだった。
 校庭の外れの土手近くに高射砲陣地(と子どもたちは呼んでいた)があり、楽しい遊
び場となっていた。
 中学校には英語の先生が二人いた。年配のK先生は、毎時間、勉強が始まる前に単語
の試験をやった。十センチ四方の大きさの用紙に十問の単語を書かせるのである。点数
をつけて発表されたが、私は常によい点というか、多くを間違わずに書けていた。われ
ながらあっぱれと、鼻を高くしていた覚えがある。
 そのかわり、発音はまったくだめで、会話など習うという気も起きなかった。英語は
、歌と同じで、音痴な私はだめと決めつけていたのだ。
 先生にはかわいがってもらったが、そんな先生を、苗字に「金」の字がつくこともあ
って、「金ツル」とあだ名をつけ呼んでいた。  
 また、小使いさんのおじさんを、「一二〇キロワット」と呼んでいた。先生より禿げ
上がっていたのだ。いずれも私が命名したのだが、おじさんにはよく追いかけられた。
面と向かって囃したてたりしたからである。
 先生には面と向かって、金ツルと言った覚えはないが、耳には入っていたのだろう、
「実れば実るほど頭を下げる稲穂かな」と、その例えを解釈された。私の頭も実ってい
るのだよ、と言われているような気がした。
 若い、これも「加」のつく、K先生は、仲間であった。私より親友の、常ちゃんを気
に入っていたらしく、先生に誘われ下宿へよく行ったが、道すがら会話が弾む二人に、
私は、お邪魔虫と思ったことがある。
 青い空の下、背は高くなかったが、話しながら大股に、スマートに歩く先生に、二人
は憧れを持っていたことは確かである。どさっと、重そうな金ツルさんとは雲泥の差で
あった。とはいえ、今思うと、英語の先生だけあって、金ツル先生にもスマートさはあ
った。
 あるとき、金ツル先生とクラスの一同は学校の舟に乗って、羽田空港に行ったことが
ある。空港には兵舎があり、まだ軍服を着たアメリカ兵(戦争は終わっていた)がおお
ぜいいた。
 その兵舎の前で、私たちを歓迎してくれたとき、私は、金ツル先生を前へ押し出すよ
うにして、会話してもらおうとした。もちろん英語で、会話などできない私たちなので、
先生にあいさつを頼んだつもりだったのに、ああそれなのに、それなのにである。
 押し出された先生は、
「こんにちは」
と言ったのだ。流暢な英語が飛び出すことを期待していたのに、これ以外の言葉は出る
ことはなかった。
 だからと言って先生をばかに思ったことも、したこともない。先生は先生であった。
 どんなにいたずらしても、常に温顔を持って接してくださったことは、忘れられない
思い出として胸にある。


[No.7042] Re: 思い出すままに 大森時代‐3 投稿者:あや  投稿日:2015/05/13(Wed) 17:49
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思い出すままに 大森時代‐3

夏休み
 
 夏休みには、家の前に茣蓙を敷いて勉強をした。同級生や、弟の同級生、他に近所の
下級生がおおぜい集まった。夏休み帳などを教えてあげたのである。机のない青天井の
寺子屋であった。
 ときにはみんなを引き連れて、六郷土手や池上本門寺などへ写生に行った。長い道中
であったが、親たちはなにも言わないよき時代であった。今は、子ども同士で、遠出な
んて考えられないだろう。
 それと、近所のラーメン店へ家庭教師に行ったことが、夏休みの大きな思い出である。
家庭教師といっても、ラーメン屋のおじさんが、息子の家庭教師になんて、冗談に言っ
ただけのこと。
 家から出て、少し行ったところの角にあった店でいつも混んでいた。子どもは三人い
て、一番下の女子はまだ、就学していなかった。私が頼まれたのは、二人の男の子で、
小学生だった。
 これまた、夏休みの宿題をみてあげるもので、毎日午前中が、その時間に当てられ
た。店が始まる前の、両親が忙しく立ち働いている、店に続いた部屋でのことである。
 中学生の私が、どんなことを、どんなふうに教えたかは覚えていないが、親御さんに
は感謝された。いっしょに遊んであげただけに過ぎなかっただろうと思う。
眼鏡をかけたピエロみたいなおじさんは、研究熱心で、お客がおいしいと言った店には
出向いて、研究してくるのだった。
私が長ネギを刻んで炒めたものがのっていたラーメンがおいしかったと言ったら、さっ
そく出かけた。幾日か経って、試作品を食べさせてくれたが、おいしかった。


ラブレターの下書き
 
田中の浪ちゃんという下級生の家は大きな家で、裏には畑が広がっていた。
 浪ちゃんのお父さんは、ずいぶんとお年寄りに思えた。おじいさんという感じすら抱
いた。お母さんはたっぷりとした黒髪の、粋な感じの人で、その話しぶりなどからして
子ども心にも、芸者さんをやっていた人のように思えた。また、お父さんとはかなり
年は離れていたように思う。
 その浪ちゃんの家には、山本富士子が大きく写された、酒屋のポスターがあった。
 お父さんは、私がその写真によく似ていると、いつも言っていた。その似ている部分
を忘れてしまったが、たぶん口元が似ていると言われたような気がする。その写真に向
かい、眺めたが、似ていたとは思えない。日本髪の美人に似ているわけはない。
 また、かわいがってもらったが、その写真のせいもあったのかと、今では思う。その
ことを、お母さんには、悪いなと思った覚えがある。小学生高学年から、中学生にかけ
てのころで、おしゃまだった。
 浪ちゃんは私より二つ下の下級生。彼女は私の比ではなく、女というものを持って
いた。お母さんに似たのだろうなんて思ったりもしたのである。
 この浪ちゃんのラブレターの下書きをした。そのボーイフレンドの顔も名も知らな
い。ただただ下書きをしたのである。代筆ではなく、なぜ、下書きかというと、私の書
いた文章を彼女がきれいな字で写して、手渡すのだ。私の字ではラブレターにならない。
 思うとなんとも不思議な気がする。どんなラブレターを書いたのだろう。私がすっか
り、忘れているだけで、彼がどんな人かは聞いていたのかも知れない。それでなくて
は、書けないと思う。また、それほどうまい文章を書いたとも思えないが、浪ちゃんに
は感謝され、書き続けた。その恋の行方はわからない。


[No.7043] Re: 思い出すままに 大森時代‐3 投稿者:あや  投稿日:2015/05/13(Wed) 18:00
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思い出すままに 大森時代‐4

私って変わっているのだろうか

 昼時のこと、外が騒がしくなったので、祖母と出てみると、空地の向こうにある工場
の窓から火が吹き出していた。
 私は垣根を跨ぎ、空地を走りぬけ駆けつけた。工場は休みだったのか、人気はなく、
近所の人が駆けつけてきた。消防車も来て、消し止められたが、それほどは燃えていな
かった。焼けたところは、工場の一角で、弟の同級生一家が住んでいた。
 詳しいことはわからないが、工場の倉庫みたいなところに置いてあった、シンナーの
壜に何かの火が入ったと聞いたような気がする。なぜかつじつまが合わないような気が
するが、いまさら詮索するつもりもない。
 焼け出された家族は、両親と二人の子ども。そこで、どんなことになったのか、まる
きり覚えはないのだけれど、私が一家を家に来るように誘ったのは確かである。小娘の
私がなぜ、そんなことをしたのかわからないが、一家はわが家に来ていて、共同生活を
はじめたのだ。
 借家の小さな家は、昔のことで、家具はなく座敷をそっくり使えたとはいえ、祖母と
私、弟の二人と、その四人の家族で、満員すしづめだった。どうやって寝たのだろうか。
 病身の父親は、勤めもしていず、終日家にこもっていた。中国にいたこともあって、
廊下の七輪で水餃子を作ってくれた。講釈の多い人だったが、おいしかった。 
 そのとき、中国には水餃子しかないと聞いたように思う。
 大家さんはそんな私を非難の目で見ていても、黙認してくれていた。数か月、そんな
共同生活が続いたが、一家は移っていった。
 いま、考えると何ということをしたのだろうかと思う。それによって、思い出される
ことがある。二十歳を少しすぎたころのことか、会社の同僚に典ちゃんという女性がい
た。私よりは年下の、典ちゃんが、ある日家出をしたと家にやってきた。帰るように説
得したが帰らないと言う。他へ行かれるよりはと、家に置くことにした。そして、いっ
しに会社へ通った。
 一週間いて出て行った。男友だちと同棲をはじめたのだ。後年、男友だちは、刑務所
に入ったりして、彼女は生活のため、屋台を引いて飲み屋みたいなものをやっていたと
聞いた。
 それを見たことはないので、私にはとても想像はつかないし、できるものではな
かった。何度か報告に来たが、いつしか遠くなった。住む世界がちがったのだ。
そのころは祖母も健在だったが、その祖母がお金がなくなったと言ったことがある。彼
女が出て行ったあとのことだったが、疑いたくない。いい子だったことは確かなのであ

 こんなこともあった。十年ほど前のことになるが、私が通っていた神奈川区のケア先
に家政婦がやってきた。東京にアパートを借りていた彼女は、住み込みが決るまでは、
通わなくてはならず、遠いと言った。
会って初めて話をした日のことだったが、「それなら、私の部屋へ来れば」と言ったの
である。そんなことで、十日ほどもいっしょに暮らしただろうか。私が出かけるとき
は、予備の鍵を預けて、いつでも出入りできるようにした。
 住み込みが正式に決って、移って行ったが、そのとき、彼女が言った言葉は、「この
世の中に、斉藤さんみたいな人はいないわ。会ったその日から、泊めてくれるなんて」
だった。
 家に入ったって、盗むものはないし、盗まれたって困るものもありはしない。それよ
りも、困っている人が助かるならそれでいいのではないだろうかと、私は思うのだ。
今、彼女は山形に帰って、福祉の仕事をしている。