思い出すままに 大森時代‐2
男装の麗人
家を出て、右に曲がって少し歩いたところに、小学校の正門があった。その前の文房 具屋が、「しょうしんどう」という名前だった。どんな字を書いたのか覚えていない。 そのしょうしんどうの鈴ちゃんとは学校友だちだった。 彼女のおばさんに当たる人は、宝塚から抜け出たようにスタイルがよく、男のような断 髪で、ズボンを穿いて闊歩していた。いっしょに住んでいた人は長い髪を持った、スカ ートの似合う人だった。二人が並んで歩く姿は絵になっていた。 その当時は、レスビアンなどという言葉は知らなかったが、子ども心に、女同士の夫 婦みたいに思った。窓が開いているときに、二人が結婚写真のように写っている写真立 てを見ることができた。子どもたちは、何やかやと理屈をつけては様子をのぞきにいっ] た。二人は困ったような顔を見せるときもあった。
二人のK先生
小学校は目の前にあったが、中学校は二十分ほども歩いたところの海岸近くにあり、 対岸には羽田空港があった。付近に人家はなく、広い広い空地に学校がぽつんと建って いるだけだった。 校庭の外れの土手近くに高射砲陣地(と子どもたちは呼んでいた)があり、楽しい遊 び場となっていた。 中学校には英語の先生が二人いた。年配のK先生は、毎時間、勉強が始まる前に単語 の試験をやった。十センチ四方の大きさの用紙に十問の単語を書かせるのである。点数 をつけて発表されたが、私は常によい点というか、多くを間違わずに書けていた。われ ながらあっぱれと、鼻を高くしていた覚えがある。 そのかわり、発音はまったくだめで、会話など習うという気も起きなかった。英語は 、歌と同じで、音痴な私はだめと決めつけていたのだ。 先生にはかわいがってもらったが、そんな先生を、苗字に「金」の字がつくこともあ って、「金ツル」とあだ名をつけ呼んでいた。 また、小使いさんのおじさんを、「一二〇キロワット」と呼んでいた。先生より禿げ 上がっていたのだ。いずれも私が命名したのだが、おじさんにはよく追いかけられた。 面と向かって囃したてたりしたからである。 先生には面と向かって、金ツルと言った覚えはないが、耳には入っていたのだろう、 「実れば実るほど頭を下げる稲穂かな」と、その例えを解釈された。私の頭も実ってい るのだよ、と言われているような気がした。 若い、これも「加」のつく、K先生は、仲間であった。私より親友の、常ちゃんを気 に入っていたらしく、先生に誘われ下宿へよく行ったが、道すがら会話が弾む二人に、 私は、お邪魔虫と思ったことがある。 青い空の下、背は高くなかったが、話しながら大股に、スマートに歩く先生に、二人 は憧れを持っていたことは確かである。どさっと、重そうな金ツルさんとは雲泥の差で あった。とはいえ、今思うと、英語の先生だけあって、金ツル先生にもスマートさはあ った。 あるとき、金ツル先生とクラスの一同は学校の舟に乗って、羽田空港に行ったことが ある。空港には兵舎があり、まだ軍服を着たアメリカ兵(戦争は終わっていた)がおお ぜいいた。 その兵舎の前で、私たちを歓迎してくれたとき、私は、金ツル先生を前へ押し出すよ うにして、会話してもらおうとした。もちろん英語で、会話などできない私たちなので、 先生にあいさつを頼んだつもりだったのに、ああそれなのに、それなのにである。 押し出された先生は、 「こんにちは」 と言ったのだ。流暢な英語が飛び出すことを期待していたのに、これ以外の言葉は出る ことはなかった。 だからと言って先生をばかに思ったことも、したこともない。先生は先生であった。 どんなにいたずらしても、常に温顔を持って接してくださったことは、忘れられない 思い出として胸にある。
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