大豆は何処からやって来た?(3) KANCHAN
ブラジルには1908年以来の日系移民たちがいて、主として南部のサンパウロ州 や、パラナ州に住んで、着々と地歩を固めていた。そして、それまでブラジル には見られなかった農業協同組合方式で、生産性の向上ならびに、流通面の強化 を図っていた。
そのうちの最大の組織がコチア農業協同組合であった。この組合は、次なる 発展の地として、嘗て鉱業で栄えたミナスゼライス州に目を向け始めていた。 ミナスゼライス州はブラジリアにも近く、州都ベルオリゾンテでは、日本と ブラジルとの共同事業であるミナス製鉄所も操業していた。
1971年、ミナスゼライス州に若きの農務長官パウリネリが登場した。彼は セラードを耕作地に転換することを夢見て検討を重ねる中で、日系人農業組合 のコチアに目を付けたのである。
1973年同州の南部の高台地サンゴダルドで両者の協力によるパダップという 計画植民事業が始まった。
約24,000ヘクタールの地を州側が用意し、1区画250ヘクタールとして分譲 した。最終的な入植者は日系人を中心に89農家であったという。その中に3人 の息子を伴った私の叔父一家がいたのであった。叔父59歳、長男29歳であった。
南部でコーヒー等を栽培していた農家の平均的な耕地面積はせいぜい10〜 数10ヘクタールであっから、ミナスゼライス州の1区画250ヘクタールという のは大変な広さであった。叔父たちは、息子たち3人と合わせて、 250×4=1,000ヘクタールで始めた。ここではトラクター他の機械による 開発が可能であった。
低い灌木地帯をこの機械力で伐採し、土地には大量の石灰とリン肥料を 埋め込んだという。水については、近くを流れる川からくみ上げて、大規模 な灌漑設備を整えた。そしてそこに、主として大豆とトウモロコシを植えた。 大豆について日本人は栽培ノウハウに詳しかったのである。
事業は着実に、成果を上げ始め、ブラジル中の注目を集めるにいたった。
1973年、世界を異常気象が襲った。大豆の価格は急騰し、最大の生産国で あるアメリカでは、ニクソン大統領が大豆の禁輸を決めた。最大の輸入国で ある日本はショックを受けたのである。
それに先だって当時の経団連会長土光敏夫氏が、ミナスゼライス州の 農務長官パウリネリの案内で軽飛行機に乗って、同州のセラードを視察し、 その開発を考え始めていたという。
1974年、田中角栄首相がブラジルを訪問し、カイゼル大統領と会談、 両国が農業開発で提携することを決定した。
1979年、両国の官民共同事業として「日伯セラード農業開発協力事業 (プロデセル)」がスタートした。
ここに至るまでに、日本側では1974年に国際協力事業団(JICAの前身)が 設立され、ブラジルの土地改良や、栽培農産物の検討等が始まっていた。 このとき、先行したミナスゼライス州サンゴダルド地区の成功が高く評価 され、参考とされた。
プロデセル計画は日本の技術支援、資金協力が柱である。そして、日系人 2世3世の優秀な労働力・企画力が不可欠であった。1979年の開始から3次に 分けて、2001までの22年間に及ぶが、最終的に21ヵ所の入植地を造成し、 東京都の面積の1.5倍34万5千ヘクタールの農地が開発された。日本の資金 協力は総資金量の約半分、351億円に上った。
この計画が起爆剤となって、ブラジルの経済・社会が大変革を遂げたのである。
(2015.8.29) 注:KANCHANから送られたエッセイの掲載です(GRUE)
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