画像サイズ: 300×224 (10kB) | マイ・スマホ KANCHAN
私は毎朝読売新聞の「編集手帳」を楽しみにしている。10月23日はそこに「電信電話記念日」についての小エッセイが載っていた。 漫画「おそ松くん」の家に電話が入ったのが1965年(昭和40年)のことであった、と書いてある。俄然私の電話についての思い出が蘇った。
私が東京に出てきて(昭和30年)初めての下宿先には電話がなかったが、大学に入ってから御世話になったN家では、商売用の電話を母との連絡に使わせてもらえた。長距離電話は申し込んでしばらく待たなければならなかった。しかしありがたかった。
昭和37年、結婚をして三鷹の1DKの公団住宅に入居できた時、電話が引けた。しかし、その電話は一種の共同電話で、団地の中の交換室経由であった。受話器を取ると交換嬢がでた。それでも大変贅沢な気持ちになったものだ。部屋にまだTVはなかった(買えなかった)。
次の袖ヶ浦団地に移ってやっと一人前の黒電話を持つことができた。昭和42年のことであった。ただ、なにやら電電公社の債券を買わねばならなかった。
時は下って、平成元年に私は銀行を出て予備校に職を得た。配属された部署は「国際教育センター」であった。そこで北京から来ていた女子留学生に中国語を教わった。彼女は大変優秀で、大学への論文のテーマに移動通信手段を取り上げていた。確かに中国は広い国で、全国に電話線を張り巡らせることは大変である。そこで彼女は、無線電話についてのレポートを作成したのであった。
ところで、私の息子は大学を出て就職した先はウォッチメーカの老舗S工舎であった。しかし彼は数年勤めた後、その会社を見限ってツーカーセルラーという会社に転職をした。携帯電話会社である。私はそんな会社知らなかったが、結果として賢明な選択であった。S工舎はやがて倒産してしまい、ツーカーセルラー社は親会社日産自動車が経営難に陥ったものの、KDDI(Au)に吸収合併されて生き残った。
KDDI(Au)はソフトバンクとともに、嘗ての電電公社直系のドコモと三つ巴の戦いをするまでになった。
さて私は否応なくAuの携帯を持たされ、やがてスマホに変更せざるを得なくなった。しかし、初めて手にしたスマホは感動的であった。電話機というよりは小コンピュータである。外出先ではなにやら妻に手綱を握られているような気がしないでもないが、そんなときはEメールで済ませる。ブラジルからも電話、メールともOKであった。
スマホはクラウドサーバーと直結している。カメラ機能を使って撮った写真をOnedriveに1000枚余預けてある。そこからFacebookに直接アップロードできる。インターネット検索はGoogleで音声入力が出来て、容易かつ有益である。
電話機は大化けし、私の老後は思いがけない展開になった。
(2015.10.31) |