お恥ずかしいことに、あっしは阿佐ヶ谷で生まれたくせに、JR阿佐ヶ谷駅の出来た経緯をマッタク知らなかった。
この「風土記」を書いた井伏さんのお蔭で、それがはっきりした。もっとも、そう云っちゃあ何だが、この本には、森泰樹さんの「杉並区史探訪」からの引用が相当に多い。ほかにも、矢嶋又次さんの著書も、参考にしている。
もっとも、広島生まれの井伏さんでは、荻窪の昔を正確にまた、詳細にわたって書くことは無理だろう。やはり、土地っ子や研究家の書籍を読みながら、書くのが正しい方法なのだと思う。
ところで、その阿佐ヶ谷駅だが、子供の頃の駅は、今のような高架駅ではなかったので、一度踏切が閉まると、駅の反対側へ行くのが大変だった。あいにく貨物列車が通ったりすると、一年後は大げさだが、10分くらいは、向こう側へ渡れなくなってしまう。そのため、この踏切は開かずの踏切といわれ、さんざん陰口をたたかれた。
それほど当時の貨物列車は長かった。あきれるほどに長かった。大型のトラックなどなかったからだろうか。
「風土記」によれば、明治22年東武鉄道(現中央線)が開通した時、中野、荻窪駅は誕生したが、阿佐ヶ谷、高円寺駅は後回しになった。
もちろん、地元では、大地主の相沢さん☆などが鉄道院に赴き、言葉を尽くして陳情したという。ところが、役所では、この痛切な陳情を、非情にも却下してしまった。
そこで担ぎ出されたのが古谷久綱氏で、新駅誕生は井伏さんによると、文芸評論家の綱武の「叔父」さんの、力添えによると書いているが、例の物知りウィッキーは、久綱は綱武の「伯父」としているので、あっしは「叔父」は間違いだと思う。兎に角この久綱と云う衆議院議員の有力者を、担ぎ出したおかげで、阿佐ヶ谷にも、JR駅が誕生したという。
それから、気になったのは四面道で、あっしらは、子供のころ『しめんどう』と呼び習わしていたが、井伏さんは、この地名の出るたび、わざわざ『しめんと』とルビを振っている。関東バスでは現在でも、『しめんどう』と読んでいるらしい。古く『しめんと』、という呼び名があったのやも知れぬ。
☆この相沢さんは、あっしらにも、なじみ深い。相沢さんの邸宅は、あっしらの6年間通った、杉並第一小学校の真ん前にあり、家と云うより昼なお暗き大森林であった。現在杉並区の保存林になっているはずだ。
もともと、相沢家は大地主と云うことは知っていたが、「風の暮らす街…杉並百点Vol.1」によれば、相沢さんは、阿佐ヶ谷村の名主だったよし。庭内にはケヤキが50本ほどあったらしいが、現在では大分減って、20本ほどになっているらしい。中には樹齢400年、樹高36メータのものも、あるという。相沢家に限らず、あっしらの家の近くにも、ケヤキの大樹はむかしから多かった。これが防風林だったことまでは、知らなかったが…。
ケヤキよりあっしは、「杉並」のもとになった、スギの大木もケッコウ多かったように記憶する。この密林には、そのほか、フクロウなども住んでいたような気がする。周囲には桑畑があり、茶の木なども植わっていた。
(つづく)
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