井伏さんのこの本は、文庫にして高々二百数十ページの分量だが、教えられることは多い。青梅街道についてもそうだ。ここはもと、成木(ナリキ)街道と呼ばれたそうだ。なぜかというと、慶長8年、家康が江戸城を築城する時、その資材として重要な、しっくい壁の材料を江戸に運ぶために、わざわざ作らせた街道だからだそうだ。
その後、大名や町家でも、塗り壁の家を作るものが増え、ますますこの街道は重要性を増した。
荻窪の地名は、付近に荻が生い茂り、くぼ地であったことに由来するらしいが、この地名は、尊王の士、高山彦九郎の「旅日記」にも出ているので、当時から有名だったと、井伏さんは記している。
彦九郎の出身地、太田市立高山彦九郎記念館には、「旅日記」なども収蔵されているようなので、訪問の機会を見つけて、一目見られればいいのだが。
「風土記」を読んでいて面白かったのは、荻窪にある天沼キリスト教会は、日本人の信者に洗礼を授けるとき、よく善福寺川を利用していたという。ところが、この川を地元では、ヨルダン川と呼んでいたという。井伏さんではないが、ヨルダン川とは云い得て妙である。
もうひとつ、あっしの印象に残ったのは、前出の外村繁さんだが、このひとは無類の子煩悩であるがその上、子ども好きでもあったらしい。というのは、誰でも自分の子どもの出場する運動会は、無理してでも見に行くが、このひとは自分の子どものだけではなく、人さまの子の運動会でも、別に頼まれもしないのに、せっせと見に行ったようだ。井伏さんの「風土記」には、外村さんのよく行くその小学校の実名が記されており、そこにあっしらの「杉並第一」小学校も載っていたのだ。外村さんは1933年に阿佐ヶ谷へ引っ越して来たらしいから、あっしは無理としても、5歳年上の、兄貴の運動会なら、あるいは、見に来ていたかも知れないと思うと、急に外村さんが身近に感じられる。★ (つづく)
★もっとも、「風土記」の著者も、外村さんと張り合って、地元杉並の運動会にはよく行ったそうだ。
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