この稿もいつの間にか、第5回目になってしまったが、もうすこしつづく。
あっしらの生まれたころは、阿佐ヶ谷などは大田舎で、住所も東京府豊多摩郡杉並町であった。しかも、今でも忘れていないが、あっしらの住んでいたところは、大字(オオアザ)小山(コヤマ)だった。
「風土記」の『あとがき』に、小山清との関連で、昭和四十一年九月、石神井川があふれ、洪水になったことが出て来る。9月だから秋の台風によるものである。あっしは当時東京は練馬に住み、ここで石神井川の氾濫のため二度、三度床下、床上を体験している。それで命からがら、千葉へ転居したわけだが、この記事は正にその頃だ。こういうものを読むt、自らの身に即して、色々なことが思い合わされる。
また、井伏さんが荻窪へ越して来た時、駅のそばに蹄鉄屋(カナグツヤ)があったと記しているが、あっしのいた阿佐ヶ谷では、蹄鉄屋というものは見たことがない。ただ、亡妻の弟から聞いた話に、自分の妻は東北の出だが、昔の家業は蹄鉄屋だった、と云っていたのを思い出す。
馬は現在で云えば、車のような存在だったので、蹄鉄屋は重要な職業だったのだろう。
あっしの家は、阿佐ヶ谷駅と高円寺駅の中間にあったので、高円寺方面にもよく出かけた。「風土記」には、この辺りが将軍綱吉による生類憐みの令で、犬屋敷として収用されたとあって、これは初耳であった。そんなことは、今の今まで全く知らなかった。
そういうことであれば、陸軍の管轄になる中野電信隊の(これも、懐かしい言葉だが)地所にも、一日中、沢山の雑多な犬の、喧しい鳴き声が、響きわたっていたであろう。
一口に犬屋敷といっても、バカにならない。なにしろ、広さが三十万坪もあり、その上まだ十万坪も増やしたという記録があるのだから。著者の井伏さんも「犬の食う米代だけでも大したものであったろう。」と嘆息している。
この本には挿絵のように、鱒二さんの自作の詩が入っており、なかなかに楽しい本に仕上がっている。また、中央線の文士連中の集まったシナ料理☆「ピノチオ」で出す料理やその値段が書いてあるのも貴重だ。
シナ蕎麦が十銭で、チャーハンが五十銭、連中はここで、将棋を指し、食事をとった。 しかし、シナ料理のくせに屋号が、今ならイタリアンの店にでも付けそうな「ピノチオ」とは面白い。何で、来々軒とかにしなかったであろう。
太宰は、荻窪に来た頃はまだ学生で、初々しかったせいか、釣りに連れて行ったり、井伏さんは特別気に入っていたようで、この本での、太宰治の登場回数が、ダントツだそうだ。例の情死事件、その真相はあっしもよくは知らないが、井伏さんは小山清の思い出の中で、もし太宰が、下連雀にあった自分の家で、中島健藏と邂逅していたら「少なくとも自棄っぱちの女に水中へ引きずり込まれるようなことはなかったろう。」と太宰の死を惜しんでいる。(つづく)
☆ 当時はみな、中華料理ではなく、普通にシナ料理といったようだ。
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