「風土記」は何度読んでも、その都度、懐かしさの込み上げて来る本だ。あっしらが毎日何気なくその前を通って小学校に通っていた『天祖神社』の名前が出て来ると、たちまち境内で行われた縁日の夜の賑わいが、はっきりと、わが耳に聴こえてくるのだ。また、
『ラッパの森』ということばに出会うと、軍事訓練が終わって、嚠喨たるラッパの音が,辺り一面に鳴り響き、この森でしばし休憩を取る習慣のあった、若い兵隊さん達の軍服姿が、ありありとあっしには、見えて来るのだ。「小休止っ!」という、上官の張りのある声とともに。
肝心の阿佐ヶ谷と云う地名。これは、この地に勢力を張っていた阿佐ヶ谷氏に因むものだそうだ。
また、この地は日本武尊が、休息を取られた地でもあり、江戸時代には神明宮と呼ばれた。あっしらには、当時の通称、天祖神社の方が一層懐かしく思われるが、現在ではさらに古い江戸時代の「神明宮」という呼称に戻されているようだ。それから、この近くに、作家の横光利一さんが住まっていたというのも、あっしは知らなかった。
また、世界的な版画家であった棟方志功が、20年以上も荻窪に住んでいたのに、井伏さんの本には、全然出てこないのは非常に残念だ。というのは、井伏さんは絵を描くのが好きで、早稲田の学生の頃から画塾に通ったりしている。また、荻窪でも、ちいさな美術サークルへ入り、「風土記」を読むと、静物だけでなく、裸婦のデッサンまでやっていたことが、記されているからだ。それから、
楽屋話ではないが、青柳瑞穂さんの骨董に対する態度もくわしく述べられていて実に面白い。阿佐ヶ谷文士村は、総じて仲良しクラブと云ってよいようだが、青柳さんと田畑さんが一時不和になり、外村さんが心配して、いろいろやったらしいが、到頭修復には成功しなかったとか。本人は真剣でも、これは趣味の問題なので、青柳さんが、やたらと腹を立てるのも大人げない気もする。とにかく、青柳さんは怒り心頭に発して、田畑さんの小説にまで、ケチをつけたという。
「向こう三軒両隣」などでも有名な伊馬春部が、今の天沼三丁目辺りが舞台の「桐の木横丁」を新宿のムーラン・ルージュで上演して、大成功を収めたことも書いている。当時、新開地の荻窪あたりでは、家主が貸家に、一株ずつ桐の木を植えたとあるが、あっしは、阿佐ヶ谷駅付近でも、桐の木が何本か、植わっていたように記憶している。
いま、杉並区のHPを見ると、阿佐ヶ谷に『阿佐谷図書館』というのがあり、そこに『阿佐谷文士村コーナー』というものがあるらしい。もし何かの用事で、阿佐ヶ谷にでも行く機会があれば、ちょこっとそこへ、寄ってみたいような気もする。図書館の場所は、むかし「第九」と略称していた、杉並第九小学校の近くらしい。このコーナーをうろちょろしていれば、なにか又、小さな発見があるかも知れない。 (おわり)
(つけたり)著者の井伏さんが『平野屋酒店』という項に書いている、荻窪の「東信閣」について。
井伏さんは、荻窪に、自分の家を新築することに決め、それが出来上がるまで平野屋という酒屋に、一時下宿することにした。じつはこの建築で、ひと騒動あるのだが、ここでは、それは省略する。著者は、当時の荻窪の地理的状況を説明する。名前は書いていないが、ある原っぱを造成して、立派な邸宅の出来た話が、そこに出て来る。その邸宅こそ、何を隠そう。大政翼賛会副総裁、のちに内務大臣にまでなった、畏れ多くも(^_-)-☆、安藤紀三郎の住まいであった。なぜ、こんなことを書くかと云えば、ここは「現在、東信閣という三階建てのビルになって」という箇所を読んで、パッと閃いたことがあったからだ。
実は、平成17年5月、あっしらは、荻窪の、名前も同じ「東信閣」というところで(杉並第一)小学校昭和18年卒業組の、同窓会をやったのを思い出したからである。で、当時の自作ヴィデオを取りだしてみると、まず間違いなく同じ建物らしい。幹事のK君にも、すでに確認済みである。
我ながら、コロンブスのアメリカ発見以来の大発見だと、ひそかに鼻を高くしている。(^O^)
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