黎明館で、特別企画展、語り継ぐ昭和の記憶からを、見てきました。私の目に、飛び込んで来たのは、ちゃぶ台とテレビです。戦後、物の乏しい時代から、両親が買ったカラーテレビは、お隣の家にはなくて、私より一つ兄さんが、我が家にテレビを見にきていました。たぶん、力道山のプロレスを、見たかったんだと思います。私が、このテレビで見たのは、「パパは、何でも知っている」。このドラマは、アメリカの明るいホームドラマで、二階へあがる階段の前に、家族が、並んで立っている場面が、今でも、脳裡に、焼き付いている。「バス通り裏」、小さな窓をまん中にではじまる歌も、あったなあ。 「てなもんや三度笠」「月光仮面」等。昔のテレビは、今のように薄くなくて、幅と奥行きがあり、狭いながらも、楽しい我が家に鎮座して、存在感がありました。ちゃぶ台とおひつは、まるで、望月優子さんの映画や、原節子さんの映画に、似合います。 これと並んで、五右衛門風呂、ダイハツミゼット、大村昆ちゃんが、メガネをさげて、ミゼット!と言っていました。ボンカレーの流行語もなつかしい。オールウェィズ三丁目の夕日にでた、堤真一さんは、あたしの母校からでた俳優さんです。あのセピア感が、とても、よくできていた。 ちゃぶ台とおひつが、置かれた部屋は、箸のあげさげまで、うるさい厳格な父親像が、浮かんできます。今は、全く、崩れさり、核家族化していきました。郷愁を感じる乗り物に、蒸気機関が、あります。SLのことです。大阪から、鹿児島まで、汽車で18時間かかりました。トンネルに入ると、窓を閉めないと、私の鼻の中は、真っ黒に、なります。南薩鉄道に乗り換えて、田舎に帰りました。 こんな時代ですから、日本の家屋は、ほとんど、汲み取り式だったです。旧家に釣り下がった、手洗い器は、手を押し上げたら、水が、出てきました。まだ、未開発で田園風景が、のこり、こえたんぼを、よく、みかけました。最近は、水洗トイレに、変わり、便利になりました。また、ウサギ小屋という言葉も、流行しました。外人の目には、日本の住まい方が、ウサギ小屋に、映るところから、この言葉が、流行りました。島国日本も、経済大国になり、建設ラッシュを、湧いて、家が、ドンドンたちました。まだ、この頃は、中国は、日本の下に、あったのです。
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