画像サイズ: 302×470 (50kB) | 4月13日、私は都内に出たついでに、上野の国立博物館でやっている黒田清輝展を見に行った。
実は黒田清輝に付いては、学校の教科書、あるいは切手で左図の「湖畔」という作品は知っていたが、その他詳しいことは何も知らなかった。
しかしこの展覧会を見て、正直私は驚いた。約40年に亘る画家の主要な作品が、会場いっぱいに展示されていた。
黒田清輝画伯は、慶応2年(1866)に鹿児島県に生まれた。18歳でフランスに留学して同時代のフランス絵画に多大な影響を受けた。「晩鐘」で名高いミレーには直接接し、「睡蓮」のモネ達の印象派の画風も積極的に取り入れている。
帰国後の明治29年(1896)に東京美術学校の講師となり、以降自分で研鑽を重ねると同時に後進の指導に力を尽くした。
パリ万国博覧会(1900)に出品した3人の裸婦像は、すらりとした西洋人の体型を借りて、現代の女性像とまったく変わらない姿を描いている。
画伯は1894年に勃発した日清戦争に従軍画家として参戦した経験もあり、画帳に、おそらく敵のものと思われる死体のデッサンも残している。
会場は、薄い青が基調として感じられ、そこにフランス絵画の香が漂う。しかし、人物は着物姿の女性が多い。
絶筆の「梅林」(1924)はあまり大きくない油絵であるが、はっと立ち止まらせるものがある。そばに以下のような随想が書いてあった。
「私は当年正に五十歳になるが、芸術にかけては一個の学生にすぎぬ。・・・仮に八十歳位になったら、自分はこういう思想を持っていますと、人に示すようなことが出来ればいいと思っている。」死の8年前のものである。
彼は54歳で貴族院議員に当選したが、58歳で亡くなった。80歳まで生きることは出なかったが、日本の洋画界の発展になみなみなにならぬ意欲を持って取り組んだ。
実は、私は昨日4月15日で80歳になった。黒田画伯が生きたかった22年もの歳月を、私は(無為に)生きて来たということになる。 しかしまあ、凡夫の生とは、申し訳ないが、そんなものである。残りの人生、せいぜい大切に生きようと思った。
(2016.4.16)
-------------------------------------------------- 黒田画伯展は5月15日まで上野の東京国立博物館で開催されている。 |