画像サイズ: 290×169 (30kB) | 私は1977年から2年間富士銀行の札幌支店に勤務した。富士銀行は小樽に支店を持っていたが、地域の衰退に見切りをつけて、昭和40年代になって閉店していた。取引先の一部が札幌支店に継承されていたので、渉外担当の私は月に一度は小樽を訪れていた。小樽にはそれなりの思い出がある。しかし、札幌から本店に異動になって以降、私は札幌には何度か行っているが、小樽には一度も行っていなかった。
その後の小樽は、運河を整備したり、ガラス細工の工場を誘致するなどして、観光都市として、雰囲気は随分変わった。
今回のツアーで、他のメンバーは、お土産店の並ぶ商業地区へ出かけて行ったが、私は運河周辺を歩いていて、何台か待機している人力車の若い引き手をかまっているうちに、つい乗ってみたくなってしまった。けして安くはなかったが、80歳の記念にいいかなと思ったものである。
車夫?は背が高く、かっこがいい若者である。私が約40年前の小樽のことを話し始めると、彼は「ヘーエ」と感心してから「私はまだその頃生まれていませんでした」という。当たり前の話だ。しかし私はショックを受けてしばし黙ってしまった。
彼は、えっさほいさと陣を引きながら、小樽の歴史を話してくれた。大きな3階建ての倉庫の前では「これは日露戦争の前からあったものです。ロシアの偵察艦がやって来てこれを見て、日本強し、として攻撃を取りやめたといいます」という。
貿易や、ニシン漁で巨万をなした資産家たちの、往時をしのぶ建物を案内してくれたが、富士銀行の前身である安田銀行小樽支店の建物を見たときには、思わず胸がじんとなった。
車夫は小樽商大の学生であるという。卒業後も小樽のために働きたいという。私はそれを聞いて、気持がよかった。と同時に私は、札幌支店時代のあることを思いだした。 私は採用担当もやっていて、小樽商大には何度か行ったこともある。そして私はほれぼれするような学生を見つけた。実はこの車夫に似ていたのであるが、彼は小樽商大の野球部のショートをしていた。
私は早速推薦書を書いて本店に送り、本店役員の面接も好成績で採用が決まった。私はいい人材が採用出来て得意満面であった。
ところがである。卒業時期になって、彼が突然やって来た。実は教科の単位が不足になり卒業できなくなってしまったというのである。それでは銀行は採用できない。
今回、私は、彼はどうしただろうと気になった。あるいは彼は銀行ではない別の業種に進んで、その方が良かったのではないかとも思った。一人の人生は一本しかない。
(2016.5.21) |