1905年 つまり明治38年 そのとき彼らはどうだったか。 という本を読みました。
その中から数名紹介して,私の独断と偏見のコメントを書きましょう。
◎高村光太郎 当時22歳 1902年に東京美術学校を卒業して研究科に残った。 「明星」同人として啄木の先輩に当たる高村光太郎を、1905年に啄木は訪問したらしい。 日本国家の運命を決定づける日露戦争の動向にも気にせず、ひたすら彫刻に,自分の芸術的人生について考えている光太郎 「高村君は東京の坊ちゃんだなあ」と啄木は書いている。
光太郎は父の勧めで1906年にアメリカに渡り、翌年ロンドンに行き、1908年にパリに着く。 「私はパリで大人になった。はじめて異性にふれたのもパリ。はじめて魂の開放を得たのもパリ。....」 「僕には又白色人種が解き尽くされない謎である。...相抱き相擁しながらも僕は石を抱き死骸を擁していると思わずにはいられない。....早く帰って心と心をしゃりしゃりと摺り合わせたい」 (ドイツ中世研究家の阿部謹也先生も、フランス人の中で孤独を感じた日本人光太郎の悲しみを指摘しています )
フランスでは孤独だった光太郎は、パリ生活を1年未満で終えて帰国する。
そして光太郎は智恵子と会う。若き芸術家同士の結婚の幸せは長く続かなかった。
智恵子は実家の没落で精神病院に入院するのだが そこで千数百点の紙絵を残す。
智恵子は、姪が看護婦でその世話を受けていたが、出された食事を見ると創作意欲がわき、それを紙絵の作品にした。 姪は早く食べて欲しいと思っていらいら待っていたらしい。
智恵子はできた作品を訪れた光太郎に恥ずかしそうに嬉しそうに見せて、よくできたねと賞められると喜んだ。
光太郎と智恵子は、結婚していなかったら、それぞれ小さな一生で終わっただろう。 二人は結婚して、「智恵子抄」や十和田湖の像によって永遠に残ったのだ。 その意味で,幸せだった。
○島崎藤村 当時33歳 この年、藤村は信州小諸から妻と幼い三人の娘をともなって上京した。 自費出版「破戒」を出すため。 貧乏な生活で妻と子供たちを亡くす。栄養失調らしい。 だが、「破戒」は評判となり、夏目漱石も絶賛した。 家族が犠牲になったが、藤村は作家としての道を歩む。若いときからいろいろ女性問題を起こした藤村は、本来の性質がそうだから、しかたがないのか。女好き藤村、女なしでは生きていかれなかった。
☆野上弥生子 当時20歳 明治女学校高等科3年生の彼女は翌年の卒業を控え、行末について考え込んだ。 郷里に帰れば親のすすめる結婚をしなければならない。東京で勉学を続けたい、また文業に対する志も抱いていた。 彼女は同級生の兄の野上豊一郎と学生結婚した。そして豊一郎を介して漱石の指導を受け作家の道を歩む。 三人の息子を育て、99歳あと少しで100歳というとき亡くなる。 死ぬまで書き続けた。 あっぱれ。 ぱちぱちぱち(拍手)
●平塚らいてう(明子) 当時19歳 1905年 彼女は日本女子大最終学年の3年生 1906年に女子大を卒業して、成美女子英語学校での閨秀文学会において講師の森田草平にひかれる。 恋は実らず、明子と草平は自殺未遂をする。
草平の師漱石は「女もそう真面目だとは思われないね。やっぱり遊んでいたんだよ。僕から見れば、言うことなすこと、みな思わせぶりだ。それが女だよ。女性の中でも最も女性的なものだね」
漱石は平塚明子を「アンコンシャス・ヒポクリット」と評した。明子の場合、自我が人格よりも強烈で、それが草平を引きまわす結果につながったのだが、しかも本人はそのことに気づいていない、ゆえに「無意識の偽善者」と漱石は見た。
恋に恋する女性 結果的に森田草平を苦しませた平塚明子は「三四郎」のモデルとなって文学史に残った。「三四郎」は魅力のない小説だった。私には。
●石川啄木 当時19歳 なんとか親切な郷里の人の温情で、自費出版「あこがれ」を出すが,ほとんど売れず、その恩人にも礼を尽くさない。
1905年5月の自分の結婚式にも、どうしたわけか出席しなかった。 あてのない東京での生活で金はなくなり、結婚式のため帰らねばないが 途中の仙台で下車して、土井晩翠をだまして借金をする。 悪い奴石川啄木 だまされた土井晩翠は人格者
なぜ啄木が結婚式に出席しなかったかというと、啄木が8歳くらいの時に死に別れた恋人がいて、(啄木が結婚したら)その女の子の祟りをおそれたのではないかという説を書いている本がある。
http://www.nhk-book.co.jp/ns/detail/201205_1.html
以上まとめると 人間は他人によくしよう、悪く思われたいないと考えながら、生活するのだが 切羽詰ってぎりぎりの状態になると我が身が可愛いくて、他人のことなど考える余裕がなくなるらしい。 その結果、自分勝手なことをして人生をおくることになる。
「青春裁判」の漫画家永島慎二の言葉を思い出しながら、この文章を終わります。
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