いやー まいった、まいった。
宇佐学マンガシリーズ第5弾「日本三大疏水の父 南一郎平」 http://www.usa-public-library.jp/news160315.html
安積疎水は、お雇い外国人オランダ人ファン・ドールン 琵琶湖疎水は、東大(工部大学校)を出たばかりの田辺朔郎 など 代表者の名前で、土木技術史に記録されているが 現場で実際に泥だらけ、汗まみれの仕事をした人たちは 南一郎平ひきいる技術者集団だった。
それはそうだろう。 明治になって洋風建築が盛んに建てられるようになったが 実際は大工が見よう見まねで独特の建物を立てていったのを見ても 大学での理論と現場の実際の技術とは距離があるのだ。
明治になって西洋の工学技術がすみやかに日本に定着していったのは それ以前の技術の歴史があったからこそ、その上に発展もあったのだ。
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松方正義は、南一郎平の能力と業績を認め、南がよい仕事ができるよう支援した。
明治3年にファン・ドールンが招かれた。 彼は協力者としてオランダから ジョージ・アーノルド・エッシャーとヨハンニス・デ・レイケを呼ぶ。
エッシャーは学歴のないデ・レイケの人柄とその高い技術力に感心し、 日本政府にデ・レイケの給料を上げるように働きかけた。 その結果再契約の時、デ・レイケの給料は400円になった。 エッシャーは帰国したが、デ・レイケは日本に残った。
明治13年松方正義はデ・レイケに会って、山の木を切るな という主張を聞いて 誠実な人柄や技術やものの考え方に感銘を受けた。 やがてデ・レイケは勅任官になった。 これは天皇から任じられた官吏で、技術者としては最高の地位になった。
四国脇町の大谷川(吉野川支流)の堰堤は明治19(1886)年 デ・レーケの作。
デ・レイケが60歳の時、日本を離れる。 山県有朋は彼の誠実さと正直さを高く評価し 彼に日本政府は5万円(現在の金なら4億円相当)の退職金を贈ったといわれる。
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