以前に読んだ本のことなど、いろいろ感じて....
堅田珠美:一億総うつ社会 ちくま新書896
ワガママなうつ病患者が増えているという。
今の精神科医はフロイトの名人芸的な精神分析はできないから、アメリカ流にマニュアルにしたがって 治療薬を試しに飲ませてみるとその薬が効いたら、ああこの患者はうつ病だと判定するらしい。 だからどんどんうつ病患者は増加する。 製薬会社のたくらみもありそう。
「うつは心のかぜ」というキャッチフレーズは、日本でのSSRIの発売に合わせて広められたものである。 「心の病には誰でもなりますよ。でも薬で治りますよ。だから精神科に行きましょう」という巧みなキャンペーンが、精神科の敷居を低くするのに貢献した。
自分がうつであるとは自覚している。 しかし、こうなったのは○○のせいである、と他人のせいにする人が増えた。 戦後の教育もその原因の一端をになうと著者は分析する。
誰でもみんな、こうありたいという理想はもっている、しかし、現実には色々な問題があり、理想とはほど遠い。そのギャップに人はみな悩む。 親のせいにする人、社会のせいにする人、職場の上司のせいにする人....
他人を攻撃する人は、実は自分もその欠点を持っている。持っているから相手の欠点がよくわかる。 「自分の内なる或悪」を相手に投影して責めるわけである。ただ自覚がないだけである。 (こういう分析はフロイド流か。 精神科医や心理学者はこういう分析が必要と思うのだが。こういう分析なしに薬を飲ませて治そうとする医師は要注意)
自分は正しい、自分は才能がある、自分はよく努力している。 しかし、なかなか理想が実現できない、それは自分のせいではなく、他人のせいだと考えて 他人攻撃をする人は江戸侍医や明治時代にもいたのではないか。 ただ現代では、謙虚な人が減って、うまくいかないのは人のせいにする人が増えた。 (私が考えるに、実際は自分の努力や他人の動き、そして運などが総合的に働いて、現実の現象となるのだろう。その意味では他人のせいにするのもあながち的外れではないのかもしれない)
学生運動に走る学生のことを、その激しいエネルギーが外に向けられたからと分析し もし、そのエネルギーが自分の内部に向けられたら、精神病になったり自殺すると解説した本もあった。
さて、話は飛ぶのですが.... (私はよく人から話が飛ぶと言われます。発想が人と違うらしい)
宇津恭子:才藻より、より深き魂に - 相馬黒光・若き日の遍歴 日本YMCA同盟出版部
明治20(1887)年10月 黒光の姉蓮子が10月17日の結婚式を前に帰される
>矯風会会長矢島楫子(やじまかじこ)は、実は矯風会書記の佐々城豊寿とは元々そりが合わなかった。 >しかし、矢島は息子の嫁にと黒光の姉蓮子と約束していた。矢島は豊寿との間に何かあって結婚式の直前に蓮子は実家に返され、彼女は狂死してしまう。 >あとになって黒光は矢島と豊寿の間のトラブル事件を聞かされ、姉の不幸を納得するのだが。
蓮子は姑になる予定の矢島楫子のもとで一生懸命に嫁の心得を受けていたのに 叔母の佐々城豊寿と矢島楫子の間が悪くなって、そのとばっちりで結婚が破棄されてしまった。 (矢島楫子は蓮子を良い嫁になると期待していたのだが、蓮子の叔母豊寿の態度が大きくなって気に入らなくなり、それを豊寿にぶっつけるわけにいかないから、弱い立場の蓮子が犠牲になってしまった)
矢島楫子はキリスト教徒で、足尾銅山の鉱毒事件では、田中正造たちを支援していたらしい。 鉱毒事件で谷中の人々は苦しんだ。社会のしいたげられた人たちを救おうとして田中正造たちを支援したのだろう。
しかし、身近にいた若い娘を自殺に追いやったのは、矢島の個人的な感情であり、自分が加害者だったとは自覚していないだろう。 ある意味では、息子の許嫁を自殺に追い込んだ矢島楫子は、この本でとりあげているワガママうつ病的存在だったのではないか。
石川啄木もそういう観点からみれば該当しそうである。 自分の限界とか挫折を巧みに矛先をかわして、社会問題に振り向けたり 友人達の親切をいいことに多額の借金のことも、自分の不真面目さではなく、社会のせいにしてしまった。
外国にもそういう歴史上の人物はけっこういそうである。 うまく問題をすり替え、自己弁護にうまい人物。
−−−−
登場人物のおさらい
佐々城豊寿の姉の子が蓮子や黒光 黒光といえば、カリーライスで有名だった新宿中村屋(インド独立運動の志士ボース) 荻原碌山は黒光に振り回された芸術家と聞く。
佐々城豊寿の長女・信子に、国木田独歩が恋して、信子の両親の反対を押し切って結婚するが、独歩の貧困のため翌年離婚。 (結婚生活の維持に経済的安定は必要) (しかし、黒光の本を読むと、独歩より信子のほうを批判している) (信子と別れた独歩は再婚するが、こちらは貧しくとも最後まで結婚は続いた)
矢島楫子の姉たちは熊本の名門家系として有名 姉の順子(竹崎順子)は、横井小楠の高弟である竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となる。 姉の久子(徳富久子)も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬と結婚し、徳富蘇峰・徳冨蘆花の兄弟を生む。 姉のつせ子(横井つせ子)は横井小楠の後妻となった。 この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれるというのは、某研究会で知りました。
横井小楠(よこい しょうなん) 熊本藩において藩政改革を試みるが、反対派による攻撃により失敗。 その後、福井藩の松平春嶽に招かれ政治顧問となり、幕政改革や公武合体の推進などにおいて活躍する。
|