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[No.316] 山田和:知られざる魯山人 投稿者:男爵  投稿日:2011/11/30(Wed) 08:33
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北大路 魯山人、本名は北大路 房次郎は
篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持っていた。

北大路 魯山人のことは
コミック「美味しんぼ」で知った。

1883年(明治16年)、京都府京都市上賀茂(現在の京都市北区)に、上賀茂神社の社家・北大路清操、とめの次男として生まれる。

 父親は自殺する。妻が不義の子を産もうとしていたからという。
 こうして生まれたとき、すでに父はいなく、実の父のことは謎のままである。
 母は上賀茂駐在所の服部巡査に相談し、琵琶湖西岸の坂本の農家の里子に出された。
 服部巡査の妻もんがその家を訪れたとき、赤ん坊だけがかごの中におかれて
 おしめも替えられていなかった。不憫に思ったもんは赤ん坊を連れて帰った。
 その後、服部巡査夫妻はいなくなり、彼らの養子茂精とその妻やすの手で
 この赤ん坊は育てられる。
 茂精と妻やすの間に子どもが生まれると、やすの母親から赤ん坊の房次郎は
 冷たい扱いを受ける。
 こうして養家にいられなくなった房次郎は福田家にもらわれる。
 (肉親の愛を知らずに育った幼い子どもは、養父福田に好かれるようおいしい食べ物の料理を覚えてほめられるようになったという)

6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校(現・京都市立御所南小、新町小)を卒業。

京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現:千坂漢方薬局)に丁稚奉公に出る。

1903年、書家になることを志して上京。翌年の日本美術展覧会で一等賞となる。
1905年、町書家・岡本可亭の内弟子となり、書道や篆刻を学んだ。

1915年、福田家の家督を長男に譲り、自身は北大路姓に復帰。
長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていった。
1921年、会員制食堂・「美食倶楽部」を発足。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していた。
1925年3月20日には東京・永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を借り受け、会員制高級料亭とする。

1927年には宮永東山窯から荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯(せいこうよう)を設立して本格的な作陶活動を開始する。
1936年、星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放、同茶寮は1945年の空襲により焼失した。
 この本の著者によると、温厚な中村竹四郎も傍若無人な魯山人のふるまいに耐えかねて、また経営が赤字になったこともあって、もっと協力的な態度をとってくれるよう諌めるつもりが、決定的な別れとなってしまったと書いてある。

戦後は経済的に困窮し不遇な生活を過ごすが、1946年には銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも好評を博す。

この本に
イサム・ノグチ・山口淑子夫妻が出てきたのには驚いた。
二人は魯山人に歓待されたのだった。