五木寛之の父は努力の人だった。 地方の師範学校出で、エリートコースからはずれていたが 何度も資格試験を受けて校長になった。
朝鮮半島で元気盛んな時代もあったが 敗戦で価値観が一変し、別人のように気力も失った。 妻に死なれ、12歳の五木寛之と幼い弟と妹を連れて 平壌から韓国へ逃避行をくわだてた。
小さい子を連れて徒歩で歩くのは大変。 保安隊の監視兵に見つかればソ連の収容所に入れられる。 声を立てないように暗闇の中を歩くのはテレビドラマでも見たが悲惨である。
そうやって足手まといの子どもを自分の手で殺したり 現地の人に預けたりして日本にみんな逃げ延びてきたのだ。
五木寛之の家族も小さい妹がやはり足手まといで 比較的裕福そうな民家があったので、その庭に置いて 残り三人で、ほかのみんなと必死の南下の道を進んだ。
だが国境の川で、保安隊がいたので みんなで相談して、今来た道を後戻りして、山岳ルートで 国境まで行こうということになった。
そして戻ったとき、現地人の民家に置いてきた妹がまだそこにいたので 父も「連れて帰る」と言って妹を再び連れて逃避行を続けたという。
五木寛之は妹に対して何の弁明もできないと述べている。 幸い、家族はその後苦労しながら無事九州に帰り 東京の大学に進学した五木寛之は、あとで弟と妹を東京に呼び寄せる。
妹にしてみたら、それは運命だった。 置き去りにした家族は、国境で越えられなかった。 そして同じ道を引き返してきたから再会できたのだった。
以上のことから 五木寛之は個人がいくら努力しても 大きな運命には逆らうことはできないという。
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