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[No.370] 五木寛之:人間の運命 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/02(Fri) 14:30
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五木寛之の父は努力の人だった。
地方の師範学校出で、エリートコースからはずれていたが
何度も資格試験を受けて校長になった。

朝鮮半島で元気盛んな時代もあったが
敗戦で価値観が一変し、別人のように気力も失った。
妻に死なれ、12歳の五木寛之と幼い弟と妹を連れて
平壌から韓国へ逃避行をくわだてた。

小さい子を連れて徒歩で歩くのは大変。
保安隊の監視兵に見つかればソ連の収容所に入れられる。
声を立てないように暗闇の中を歩くのはテレビドラマでも見たが悲惨である。

そうやって足手まといの子どもを自分の手で殺したり
現地の人に預けたりして日本にみんな逃げ延びてきたのだ。

五木寛之の家族も小さい妹がやはり足手まといで
比較的裕福そうな民家があったので、その庭に置いて
残り三人で、ほかのみんなと必死の南下の道を進んだ。

だが国境の川で、保安隊がいたので
みんなで相談して、今来た道を後戻りして、山岳ルートで
国境まで行こうということになった。

そして戻ったとき、現地人の民家に置いてきた妹がまだそこにいたので
父も「連れて帰る」と言って妹を再び連れて逃避行を続けたという。

五木寛之は妹に対して何の弁明もできないと述べている。
幸い、家族はその後苦労しながら無事九州に帰り
東京の大学に進学した五木寛之は、あとで弟と妹を東京に呼び寄せる。

妹にしてみたら、それは運命だった。
置き去りにした家族は、国境で越えられなかった。
そして同じ道を引き返してきたから再会できたのだった。

以上のことから
五木寛之は個人がいくら努力しても
大きな運命には逆らうことはできないという。


[No.371] Re: 五木寛之:人間の運命 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/02(Fri) 14:49
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> 以上のことから
> 五木寛之は個人がいくら努力しても
> 大きな運命には逆らうことはできないという。

激流の小舟とか
沙漠の中で孤立してたんでは
誰かの助けとか必要で
自分一人でいくら頑張ってもどうしようもないのですが....

さらにこの本を読むと、次のようなことが書いてあります。
 親鸞聖人が「宿業」ということを言う。
 この「宿業」を「前世の行為」と訳してある現代語訳もある。
 だが、「宿業」の「宿」はたしかに過去をしめす表現だが
 「前世」と言ってしまえば、首をかしげたくなる気持ちがある。

 よくスピリチュアル系テレビ番組などで
 「あなたの前世は、戦国時代の武将でした。
 そのときたくさんの敵を殺したその報いが、いまあなたを苦しめているのです」
 などと説かれることが少なくない。
 そういった「生まれ変わり」的前世というものを
 五木寛之は信じないという。

むしろ、きっぱり「過去」と受けとってしまえば納得がいく。
つまり「宿業」とは、その人にまつわるすべての過去の状況である。
五木寛之の過去を左右するのは、彼の両親であり、父と母が彼を生んだのだ。
その両親の二人の関係が、子どもの五木寛之に深く関わっている。

両親が日本人であったが故に、五木寛之はアジアの日本民族の一人である。
それは五木寛之の「宿業」のひとつであり、彼自身の自力ではどうしようもない因縁なのだ。
そして、彼の両親はまた、その親の過去によって、九州の山村に生まれている。


[No.447] Re: 五木寛之:人間の運命 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/05(Mon) 20:17
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>  親鸞聖人が「宿業」ということを言う。

ある過酷な状況下で、心優しく、人間的な人は、なかなか生きのびることはできない。
そんな意見に対して、当然、反論もあるだろう。
アウシュヴィッツの「夜と霧」のなかを生きのびたフランクル自身が、その証明でもある。

しかし、著者の知る限りでは、終戦後の時期みずからを犠牲にして他人を生かそうとする人間は、犠牲になることが多かった。、

たとえば国境線を越えての脱出行がある。トラックの荷台には、脱出者がぎゅうぎゅうづめになっていて、あと一人しかのせる余裕がない。
そんな場面で、二人の脱出者がつみ残されており、どちらか一人しかのせられないとなったらどうするか。
礼儀正しく、「あなたがおのりなさい」とか、「あなたがどうぞ、私が残ります」と
身をひく人は、まず生きのびることはできなかったった。
相手をつきとばしてでも、トラックにとびのった者が、帰国できたのである。

そんな場面が数限りあった。そして結局、そこを生きのびて引き揚げ、帰国できたのは、いわば悪人だけだったのではあるまいか。

みなが助け合って幸運にも脱出できた、という話を、五木寛之は夢のようなおとぎばなしとして聞く。

極限状態のなかで、生きのびた者はみな悪人である、と五木寛之は思う。