竹山道雄:ビルマの竪琴
はにゅうの宿、ビルマの臥仏像、水島上等兵 この話は映画で見たのが最初だった。 本を読んだのはそれからずっとずっと後。
敗戦当時の頃、兵隊たちが復員してかえってきたが、みなやせて、元気もなかった。 そんな中に、大変元気よく帰ってきた一隊があった。 隊長が音楽大学を出たばかりの音楽家で、兵隊たちに熱心に合唱を教えていたのだった。 この隊は歌のおかげで苦しいときにも元気が出るし、いつも友達同士の仲もよく、隊としての規律もたもたれていた。 この隊の一人の兵士がこの話をしてくれた、というはじまりになっている。
竪琴のうまい水島上等兵は風貌もビルマ人に似ている。 そういう書き出しで、のちに主人公の水島上等兵がビルマ僧となって、竪琴を 弾きながら、死んだ兵士の遺骨を弔う仕事をする伏線を書いているのはさすがだ。
イギリス兵から3日前に日本は降伏したことを聞かされ、この音楽の得意な隊は 捕虜生活をおくる。隊長はみんな一緒の行動をとろう、そして全員無事日本に帰ろう と言う。
そして、水島上等兵は隊長から頼まれた。 遠くの山(三角山)に、日本兵がたてこもっていて、どうしても降伏しない。 それをイギリス軍が攻撃して、いまだに戦闘が続いている。 自分はイギリスの将校に頼んだ。どうか、われわれのうちの一人をその山にやって、 説得をさせてもらいたい。 それではやってみろという許可をもらったから、おまえが行ってくれというわけだ。
そして、水島上等兵が無事任務をはたしたら、この隊がムドンの町の捕虜収容所 におくられることになっているから、そこで落ち合おうと約束する。 こうして、水島上等兵は一人任務について、隊のみんなと別れた。
それっきり、水島上等兵は帰ってこなかった。彼の竪琴の伴奏のない合唱は つまらないものになった。
やがて、人づてに彼らは水島上等兵の消息を聞く。終戦となってもなお抵抗した部隊 が全滅しなかったのは、よそから説得に来た兵士のおかげだった。戦闘は続いたが、 説得の功があって、結局は何人かの日本兵は降伏し命が助かったということだ。 しかし、弾の中を走り回って降伏を説得し続けたその兵士がどうなったか誰も知らない。
こういう話を聞きながら、ときおり見かける水島上等兵によく似たビルマ僧のことが、 隊長はどうしても気になってしようがない。 隊長は青いインコに「おーい、水島、一緒に日本に帰ろう」と教え込む。 隊長は4日後に隊の全員は日本に帰ることをビルマ僧に伝えてもらうよう ビルマ人のおばあさんに頼んだ。
そして、明日日本に帰るというとき一行の前にビルマ僧が現れ、水島上等兵だという 証拠の演奏をする。しかし、彼は隊には戻って来なかった。彼はビルマに僧として 残るのだった。
あのおばあさんがビルマ僧のいつも肩にとまっていたインコ(隊長が水島帰ろうよと教えたインコの兄インコ)と手紙を届けに来る。 そのインコは「ああ、やっぱり自分は帰るわけにはいかない」と叫ぶのだった。
一行の帰国の船がマラッカ海峡をすぎたころ、隊長は水島上等兵からの手紙の封を 切って、みんなの前で読み始めた。
「みんなと一緒に日本に帰りたい。しかし、どうしてもしなければならない仕事が ある。この仕事がすんだら、それがゆるされるなら、日本に帰ろうと思う。 しなければならないことというのは、ビルマのいたるところに散らばっている日本人の 白骨を墓におさめ、てあつく葬ることである。この悲惨なものをそのままにして、 日本に帰るわけにはいかない」
あとがきで作者は書いている。 この読物を書くのに、日本兵が合唱をしていると、とり囲んでいる敵兵もそれに つられて合唱をはじめ、ついに戦いはなくてすんだ、というような筋を考えた。 しかし、日本人と中国人が歌う共通の歌はない。それで、われわれが子どもの頃から 歌っている「はにゅうの宿」を一緒に歌える相手は、イギリス兵でなくてはならない と考えるにいたった。 こういう事情から、舞台はビルマになってしまったという。
作者はビルマに行ったことはなかった。だが、台湾に行ったことがあり、現地の部落 を訪れたこともあり、台湾の風土を思い出しながら、この話を書いたという。 終戦後すぐのころなので、進駐軍の検閲があった。(映画も芝居もみんな検閲された) 第1話を書いてそれを検閲に提出した。
検閲の結果、戦争をあつかっているからと不許可になった。出版社の方で何度か当局と 交渉してやっと、書いてから半年後に掲載されることになった。 そして、その続きは、この話が終わりまで完成した後に、全部を調べて大丈夫だと 判断されたら、許可されることになったという。そのため、全部を書くのに時間的な 余裕ができて色々調べることができたという。
ビルマ全国に日本兵の白骨がたくさん野ざらしになっていること、日本兵が敗戦後に 脱走してビルマ僧になっている者がある等の話を聞いて、作者は話の筋立て構成を 決めた、とあとがきに書いてある。
しかし、現地の体験がないため、細かいところでは数多くの間違いがあったようである。 たとえば、僧がはだしで歩いているように書いたが、僧にかぎって「ポンジー草履」 と呼ぶものをはいているそうだ。
ビルマの僧侶は生き物を飼うことは決してない。楽器も弾かない。 インコを肩にのせて竪琴をもつビルマ僧は、ビルマの人には信じられない存在なのだ。
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