デ・レイケは日本に三十年も滞在して 日本の河川工事に大きな功績を与えたオランダ人である。 明治政府は彼の功績を高く評価して、彼の退職するとき当時の金額で五万円の大金を送った。
著者は建設省の河川技術者としてトップの地位を歩んできたが あまり知られていないデ・レイケに注目して 彼の上司で短期間の日本滞在の後にオランダに帰国したが その後も日本の河川工事ではたえずデ・レイケの技術相談の相手になったエッシャー のことを知り、オランダのエッシャーの残した資料を読むため 57歳でオランダ語を勉強したという真面目な技術者である。
デ・レイケの取り組んだ木曽三川について歴史的にまず説明している。 そこで 宝暦三年の薩摩藩の「お手伝い普請」が出てくるのである。 江戸幕府は薩摩藩の力を弱めるため、難工事を命じたのであった。
苦労して工事は終わったが 工事中薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に総指揮の家老平田靱負が自害したのであった。
このことがのちに 薩摩藩が江戸幕府を倒す遠い原因の一つとなる。
長州藩もやはり江戸幕府には恨みがあった。 関ヶ原の合戦の時に、毛利輝元は家康により、中国地方300万石の大大名から周防・長門36万石の小藩に追いやられてしまった。 この恨みを忘れないように 毎年元旦未明になると藩主と筆頭家老のみが城内の大広間に現れ、家老が「徳川討伐の支度が整いましたが、いかがいたしましょう」と言い、藩主は「時期はまだ早い」と受ける習慣があったという。
徳川慶喜にしてみれば 自分ではなく、親の因果でもなく、遠い先祖のしたことのつけを 負わされたようなものかもしれない。
|