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[No.462] 上林好之「日本の川を甦らせた技師 デ・レイケ」 投稿者:男爵  投稿日:2011/12/06(Tue) 11:34
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デ・レイケは日本に三十年も滞在して
日本の河川工事に大きな功績を与えたオランダ人である。
明治政府は彼の功績を高く評価して、彼の退職するとき当時の金額で五万円の大金を送った。

著者は建設省の河川技術者としてトップの地位を歩んできたが
あまり知られていないデ・レイケに注目して
彼の上司で短期間の日本滞在の後にオランダに帰国したが
その後も日本の河川工事ではたえずデ・レイケの技術相談の相手になったエッシャー
のことを知り、オランダのエッシャーの残した資料を読むため
57歳でオランダ語を勉強したという真面目な技術者である。

デ・レイケの取り組んだ木曽三川について歴史的にまず説明している。
そこで
宝暦三年の薩摩藩の「お手伝い普請」が出てくるのである。
江戸幕府は薩摩藩の力を弱めるため、難工事を命じたのであった。

苦労して工事は終わったが
工事中薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に総指揮の家老平田靱負が自害したのであった。

このことがのちに
薩摩藩が江戸幕府を倒す遠い原因の一つとなる。

長州藩もやはり江戸幕府には恨みがあった。
関ヶ原の合戦の時に、毛利輝元は家康により、中国地方300万石の大大名から周防・長門36万石の小藩に追いやられてしまった。
この恨みを忘れないように
毎年元旦未明になると藩主と筆頭家老のみが城内の大広間に現れ、家老が「徳川討伐の支度が整いましたが、いかがいたしましょう」と言い、藩主は「時期はまだ早い」と受ける習慣があったという。

徳川慶喜にしてみれば
自分ではなく、親の因果でもなく、遠い先祖のしたことのつけを
負わされたようなものかもしれない。