> トキワ荘に手塚治虫を訪ねていった時、外出する手塚は > あとを寺田に頼んだから、我孫子はそのまま寺田の部屋に泊まってしまった(手塚治虫は待てど暮らせど戻ってこない)。 > > その次にトキワ荘に行ったとき、編集者が手塚の原稿のべた塗りをしているのを見て > 代わりにすることを申し出たら手塚が喜んだ我孫子に頼んだ。
「少女クラブ」の丸山昭元編集長が トキワ荘に集まった多くの作家を育てた功績で 手塚治虫文化賞の特別賞をうけたとき 赤塚不二夫に言われた。 「『少女クラブ』が売れなくて、みんなが描かないもんだから、丸さん、苦し紛れに俺たちに描かせたんだ」
半分あたっている。 丸山はいう。僕は育てたりしてませんから、自分で勝手に伸びてったんですよ。 褒められていいと思うのは、あの連中にページを割きつづけたってことでね。 テーマや方向性は事前に打ち合わせしますが、あとはまったくのおまかせで 連中は僕のいうことをハイハイって聞いて、描いてくるのは、一見それ風に 見えるんですが、実は自分の描きたいもの、しっかり描いてるんですよ。 でも、できがいいから許しちゃう。
僕がラッキーだったのは、新人漫画家の出やすい時期に編集者やってたこと。 才能に恵まれた選りすぐりの人たちが、たまたま僕の近くに集まってきたこと。 漫画のことあんまり知らないで、連中に勝手なことさせてしまったこと。 そういう条件が重なって、意外な好結果が生まれたんでね。
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「龍神沼」は「昭和36年(1961)」の「少女クラブ」の「夏休み増刊号」に掲載された作品であるが 当時のことをふりかえって 石森章太郎はよく新人漫画家に新しいものを描かせてもらえたと感謝する。 他の雑誌ならああしろこうしろと一方的な注文が多い。 なのに「少女クラブ」はわりあい好きなことができた。 彼にしてみれば新しい実験をいろいろやることができたという。
そして そのことはちゃんと反映された。 石森がさいとう・たかをたちと漫画家のパーティで飲んでいるとき 石森の回りにだけ里中満智子などの女流漫画家が集まってくるのだ。 それを見て、さいとう・たかをは面白くない。なぜ石森だけもてるのだ。
さいとう・たかをにしてみれば石森章太郎も自分も漫画週刊誌の人気漫画家で 同じような存在だと思っている。 しかし、石森章太郎には「少女クラブ」時代があったのだ。 そして読者たちは、母ものや少女漫画特有の乙女の恋愛ものには飽きて 石森の新しいテーマや技法に新鮮なものを感じていたのだ。
石森たち男性漫画家(赤塚不二夫や藤子不二雄なども含まれる)の新しい少女漫画の世界に目覚めた読者の中から 新しい女流漫画家たちが生まれたということなのである。
これは石森章太郎や里中満智子などの本に、裏付けとなることが書かれてある。
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