画像サイズ: 816×612 (86kB) | > 野田隆:駅を楽しむ!テツ道の旅 > この本に出ていた万葉線は高岡からの電車
万葉線の名前は 高岡に赴任した大伴家持からとった。
大伴家持は旅人の息子。 天平18年(746年)7月に越中守に任ぜられ、天平勝宝3年(751年)まで赴任。この間に220余首の歌を詠んだ。 これを記念して高岡駅前に像がある。
天平勝宝6年(754年)兵部少輔となり、翌年難波で防人の検校に関わる。この時の防人との出会いが、『万葉集』の防人歌収集につながっている。天平宝字2年(758年)に因幡守。翌天平宝字3年(759年)1月に因幡国国府で『万葉集』の最後の歌を詠む。
天平宝字元年(757年)に発生した橘奈良麻呂の乱には参加しなかったものの、藤原良継(宿奈麻呂)・石上宅嗣・佐伯今毛人の3人と藤原仲麻呂暗殺計画を立案したとされる。
延暦2年(783年)に中納言に昇進するが、延暦4年(785年)兼任していた陸奥按察使持節征東将軍の職務のために滞在していた陸奥国で没した。
多賀城で亡くなるのですが、多賀城ではそんなに取り上げられてはいないようです。 東日本大震災クラスの地震津波が多賀城にあって、その痕跡が最近発見され 東日本大震災は千年に一度の地震津波だったと言われるようになりました。
万葉線は 高岡-越ノ潟 |