画像サイズ: 816×612 (81kB) | 著者の相沢源七は宮城県の人。
どちらかというと 啄木は仙台の土井晩翠から借金をして返さないまま死んでしまったから 宮城県人には憎まれるはずだが 当の土井晩翠は啄木を悪く言わないものだから 有名人啄木を宮城の人も粗末に扱わないようである。
著者は仙台における作家群を分類している。 土着型(土井晩翠・吉野臥城) 愛着型(相馬黒光) 客旅型(高山樗牛・岩野泡鳴・島崎藤村・魯迅) そして、啄木は疾風型というタイプを新たに設けてそこに入れたいという。
仙台に下車した啄木は晩翠からの借金に成功して 盛岡時代の友人たちと酒を飲んで過ごした十日間の仙台滞在だった。
あと北海道から東京に帰る途中の船が立ち寄り食事をした荻浜のある石巻のみ。
さて 石巻の日和山には啄木の歌碑があるのだが 啄木たちが盛岡中学の修学旅行で行ったのは釜石なとで 公式には石巻には行っていない。 だが、希望者だけで啄木たちは石巻に行ったという証拠はいくつか残っている。
たぶん啄木が書いたであろう(盛岡中学の)校友会誌に石巻報告があり 啄木日記にも対応した記録があり あと この本で紹介されている 啄木が盛岡時代の恩師だった、石巻女子実業学校校長新渡戸仙岳宛の手紙である。 「....川に臨める福島屋旅館の三階、瓦斯の光のいと明きに面も染めて花やかに物語る女ありしが....」
新渡戸仙岳は啄木が盛岡高等小学校時代から生涯を終えるまで 終始一貫、物心両面にわたる支援をし続けた人物である。 |