[No.525]
Re: わが人生の歌がたり
投稿者:男爵
投稿日:2011/12/12(Mon) 16:13
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> > 五木寛之が深夜ラジオ便で
> > 語り、当時の流行歌をかけて聴く番組であった。
五木寛之は美空ひばりを高く評価していた。
一時期、「美空ひばり論争」というものがあって、羽仁五郎さんなどの進歩的な文化人の間で、「美空ひばりのような歌い手が、大衆に好まれている間は、日本もまだ本当の文明国ではない」という議論が盛んに交わされました。そのころ私はずいぶん頑張って、美空ひばりさんの歌を擁護したものです。
心のなかでは口ずさみながらも、流行歌が好きだなんてインテリは言いづらい時代でもありました。大学の先生で、美空ひばりが大好きな人が、家のなかでは熱心に聴いていても、お客が来ると慌ててラジオを消して歌声が漏れないようにしたなんて話があるくらいです。
その後、「思想の科学」という評論誌などで、歌謡曲論が展開されるようになって、寺山修司さんなどが、積極的に擁護する発言をしたり、歌謡曲の詞を書いたりするようになってから、少し変わってきました。それでも、私が小説家になってから、藤圭子という歌手を絶賛したときには、「なんだ、作家が流行歌手のお先棒を担ぐのか」と、みんなからずいぶん笑われたことがありました。
そういうわけで、五木寛之は
この時代に突然登場した美空ひばりの「悲しき口笛」をあげて
音程の正確さとか、微妙に音程をずらす、そのずらし方とか、リズム感とか、言葉の表現力、声量、音域の広さ、どれをとっても歌手としてすごい技術の持ち主で、天賦の才があったとほめている。
歌謡曲は大衆芸術で、芸術といえるものではない、芸術とは西欧のクラシックみたいな高尚な音楽だというは、どうも日本特有の考え方のようである。
たとえば、タンゴとかジャズなど、貧しい下層階級の間で生まれたとされるが、世界で通用する音楽芸術である。
音楽を芸術的なものと大衆的なものにわける日本特有の見方は
西洋にはないということを、西條八十や古賀政男などもものの本に書いている。
同様のことは、加太こうじも書いている。
「.....同じ歌をテナーの藤原義江が歌うと芸術になり、芸者の市丸が歌うと芸術ではないというのは、芸術主義者やプチブルが芸者や民衆を軽視しているから勝手にそうきめたのである。ここからが芸術、ここからが非芸術という区別はできないのに、自分に都合のいい芸術だけを認めているのだ。.....」
http://www.mellow-club.org/cgibin/free_bbs/11-semi5/wforum.cgi?no=519&reno=518&oya=518&mode=msgview
文学の世界もしかり。
高校の英語で、教科書のデュマの「モンテ・クリスト伯」を読んだとき
英語の先生は、欧米では日本のような、純文学と大衆小説という区別はない
と教えてくれました。
明治になってそれまでなかった西洋の文学や音楽などの文化を輸入したとき
いわゆる日本の文化人が自分の考えで、これは高級、日本のはそうでないから低級と
分けてしまったようです。
舶来主義といってしまえばそういうことなのかもしれません。