平成も四半世紀を過ごしました、懐かしきは昭和の時代です
輝かしい青春時代 バリバリの仕事人間だった時。
国の内外を問わず企業出向の経験もおありですか?
お話し下さい・・・貴方の昭和
※ ご投稿は「メロウ伝承館」へ転載させていただくことがあります
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[No.3349]
Re: 私のお風呂体験
投稿者:Pan
投稿日:2018/03/30(Fri) 21:42
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夏子さん、男爵さん、まやさん、みなさん こんにちは。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
>
> それはそうと、五右衛門風呂と言う名は、五右衛門の釜茹での刑に因んでいるんです
> よね。五右衛門が先か、それとも鉄の風呂釜はそれより前から存在していたのか
> 考えると眠れない・・・(^^ゞ
> 夏子
アハハ、鉄の風呂釜の方が先だったと思います。
むしろ、その釜が入浴専用だったか他の目的にも使われていて、入浴にも使ったと
考える方が自然です。
底から排水する構造も、あの釜を傾けて排水するには重過ぎることを考えると当然
でしょうね。
しかし、あの排水口を底に付ける技術はなかなかのもので、五右衛門が釜茹でにさ
れた頃にもあったかどうかです。
***** Pan *****
[No.3348]
Re: 私のお風呂体験
投稿者:夏子
投稿日:2018/03/30(Fri) 17:52
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まやさん、こんにちは。
> 親が家を新築したのが昭和10年なので、私にはそれが五右衛門風呂初体験の
> 時期かと思いますが・・・翌年か翌々年か、冬の寒い朝、お風呂の湯で洗顔を
> しようとして少しぬるくなったお湯の中に落ちたことがあります。今の私の脳
> 裏では物干し竿で毛糸編みのワンピースが揺れています(*^^)v
あらまぁ、幼いころにはありがちな事故のようですが、無事でよかったですね。
> 我が家の五右衛門風呂は石炭が燃料でした。ですから、いったんお湯が熱く
> なるとなかなか冷めず、朝まで温かだったので、上記のようなことが起こった
> のでしょう。
石炭の豊富な九州らしいですね。うちは石炭は、どんな燃料としても使った
ことがありません。石炭ストーブは、学校の教室にあったかなぁ。そんな程度です。
> 子供のころはその五右衛門風呂に祖母と一緒に入って蜜柑を食べたりした思
> い出があります。遊びながら入って10まで数えて出るようにと言われたのも懐
> かしい思い出です。ひぃーふぅーみぃーよぅ−いつ、むぅ〜〜〜
可愛いまやちゃんが想像されます(^o^)/ そういう記憶は全然ありません。
仰向けに抱きかかえられて、父に髪を洗われるのが苦しい思い出だったくらい(^^ゞ
下手だったんでしょうね、父も。
> その後、所沢に引っ越しした後はシャワーだけか、普通の家庭にあるような
> 風呂を経験した後、今のケアハウスに入居して泳げるくらい大きなお風呂を楽
> しんでいます・・・誰もいない時間には寂しいくらい・・・このお風呂はケア
> ハウス住まいとしては格別に嬉しいことです。
終わり良ければすべて良し\(^o^)/
誰もいない時に足を滑らせたりして、おぼれたりしないでくださいね。
ケアハウスでは気を付けてくれるとは思いますが、濡れた床で滑って転倒という
事故もあると、今日テレビで見ました。
うちの娘は、寮のお風呂で、ベチャベチャの足ふきのせいもあったのか、水虫を
貰ってしまいましたよ(^^ゞ 管理の行き届かない寮でしたね。友達のお父さんが
皮膚科のお医者さんで、ふと見たら、カルテに○さん(娘さんの名前)の友人と
書かれていたそうです、ハハハ。おかげで再発してません。
それはそうと、五右衛門風呂と言う名は、五右衛門の釜茹での刑に因んでいるんです
よね。五右衛門が先か、それとも鉄の風呂釜はそれより前から存在していたのか
考えると眠れない・・・(^^ゞ
夏子
[No.3347]
Re: 私のお風呂体験
投稿者:まや
投稿日:2018/03/29(Thu) 23:56
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夏子さん、男爵さん & 皆さん、今晩は!
五右衛門風呂に釣られて出てまいりました。
親が家を新築したのが昭和10年なので、私にはそれが五右衛門風呂初体験の
時期かと思いますが・・・翌年か翌々年か、冬の寒い朝、お風呂の湯で洗顔を
しようとして少しぬるくなったお湯の中に落ちたことがあります。今の私の脳
裏では物干し竿で毛糸編みのワンピースが揺れています(*^^)v
我が家の五右衛門風呂は石炭が燃料でした。ですから、いったんお湯が熱く
なるとなかなか冷めず、朝まで温かだったので、上記のようなことが起こった
のでしょう。
子供のころはその五右衛門風呂に祖母と一緒に入って蜜柑を食べたりした思
い出があります。遊びながら入って10まで数えて出るようにと言われたのも懐
かしい思い出です。ひぃーふぅーみぃーよぅ−いつ、むぅ〜〜〜
上級学校に入ると、寮や下宿など住まいが変わるごとに風呂も変りましたが、
戦後ほどない時期ということもあって、毎日お風呂に入るというわけにはいき
ませんでした。それに、お湯もたっぷり使えないときもありました。銭湯の経
験をしたのもこのころです。
その後、所沢に引っ越しした後はシャワーだけか、普通の家庭にあるような
風呂を経験した後、今のケアハウスに入居して泳げるくらい大きなお風呂を楽
しんでいます・・・誰もいない時間には寂しいくらい・・・このお風呂はケア
ハウス住まいとしては格別に嬉しいことです。
まや
[No.3346]
Re: 私のお風呂体験
投稿者:夏子
投稿日:2018/03/27(Tue) 10:13
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男爵さん、こんにちは。
> 五右衛門風呂は底が熱いから、板を敷いていました。
そうそう、そうでした。底板が斜めにならないように、板の上で、右足と左足で
上手く平らに敷けるように、それなりの技が必要でした。
今想像すると、笑えますねヽ(^o^)丿 裸で股を開いてバランスを取るわけで・・・
我が家の風呂は、長方形だったので、底板も長方形。もしかして、丸いほうが
簡単だったでしょうか?
> 燃料が薪というのが多かったみたいですね。おがくずもありました。
そうでした。真ん中に穴の開いた、ちくわを大きくした形状で。
これの名は「オガライト」でしたね。火力も強いということでしたが、うちでは
使ったことがありませんでした。価格が高かったのかも。
> 今では、石油やガスですね。
電気が一番多そうですが、電車などの車窓から、軒下に、長さを揃えた薪を、
美しく積んである景色は、何とも言えず郷愁を誘われます。今でも、山間地など
では、残っていますね。
昨日見たテレビでも、丸太を割って薪を作り、きれいに重ねる作業の様子を
みましたが、やっぱり高齢者ばかりで、重労働をたんたんとこなしておられました。
夏子
[No.3345]
Re: 私のお風呂体験
投稿者:男爵
投稿日:2018/03/27(Tue) 05:19
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夏子さん、みなさん おはようございます。
> 昭和40年頃までは、五右衛門風呂に入っていた。
> 時には、風呂焚きもした。
五右衛門風呂は底が熱いから、板を敷いていました。
> 結婚してからも、最初は五右衛門風呂だった。4軒長屋に住んでいて、薪作りや
> 風呂焚き当番もあった。薪は、誰のツテだったか知らないが、製材所の端材を
> 安く買っていたのだと思う。
燃料が薪というのが多かったみたいですね。おがくずもありました。
今では、石油やガスですね。
[No.3344]
私のお風呂体験
投稿者:夏子
投稿日:2018/03/26(Mon) 00:33
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昭和40年頃までは、五右衛門風呂に入っていた。
時には、風呂焚きもした。
風呂焚きは、好きな時間でもあった。火を見てると、何か癒されると言うか、
そんな気になりませんか?
結婚してからも、最初は五右衛門風呂だった。4軒長屋に住んでいて、薪作りや
風呂焚き当番もあった。薪は、誰のツテだったか知らないが、製材所の端材を
安く買っていたのだと思う。
お風呂場から一番離れた端の家で、冬に生まれた娘を、バスタオルにくるんで
家まで走ったいた。出産の手伝いに来てくれた姑が、○チャンは、あんな雪の
降るような寒い中を、湯上りで運ばれていたから、元気に育ったんだねぇ、と
感心してくれたことを思い出す。
しかし、生まれたては、部屋にビニールを敷いて、木製のタライに湯を張って
夫が入れて、姑が傍から手伝って、それを、私が布団の中から見ていた記憶が
あるので、事実の時間関係が混乱してしまう(^^ゞ
昔は、産後は2週間くらい寝てませんでした?(^^ゞ
長屋に2年いた後、4層アパートに当たって、ガスぶろになった。
同時に、初めて洋式トイレのお世話になったが、どうしていいか最初は
悩んだものだ(^^ゞ
4階住まいで、赤子をおんぶしての買い物が苦労だったが、風呂とトイレは
快適だったアパートは、夫が新しい職場を得て、わずか3カ月でお別れ。
新築の借家は、工事が遅れて、まだ水道も来ていなかったっけ。
ここで、また薪で沸かす五右衛門風呂に。トイレもボットントイレに逆戻り。
火を見るのは好きだが、時間がかかるのは大変だったな。最低でも、水を
入れてからいい湯加減になるまでに、1時間はかかったと思う。
また4層の県営アパートに当たって、2年で転居。
今度は3階で、1階少ないだけでも上り下りはずいぶん楽だった。赤子を
負ぶわなくてもよくなっていたし(^^ゞ
また職場が変わって、転居。木造一戸建てで、お風呂はガス風呂だった。
マイホームを新築して転居。お風呂は深夜電力を利用しての給湯式になった。
格段に労力は楽になった。何せ、水を張る時間=お湯が溜まる時間なので、
楽ちん楽ちん、というようなものだった(^o^)/
しかし、新興の住宅団地で、まだ家が少なく、下から吹き上げる北風が冷たく、
温水器は凍結して、何度壊れたか分からない。修理費は結構かかった。
何度目かに壊れた後、燃料費が安いと言うことで、灯油ボイラーに替えた。
これも何年か経って、そろそろ交換時期となった頃、年齢的に灯油缶を
運ぶのにきっと苦労すると思えてまた電気温水器に替えた。
初めに設置した温水器は、深夜電力で決まった量までしかお湯が使えず、
年末になると、お湯を使う量が急増するので、肝心な時にお湯が出なくなって
不便だったが、今回のは、定量の湯ではないので、好きなだけ使える。
ところが、家族数も減り、正月だからと言って、シャカリキにおせち料理も
作らなくなり、定量制でも間に合ったに違いない(^^ゞ
以上、私のお風呂体験である。ずっと内風呂だったので、銭湯体験という
のは、一度しか記憶がない。友達に誘われて初めて行った時、おばさん達が
象のような足で、のしのしと歩いているのをびっくり仰天して眺めたもの
だが、今や、私自身が、あのおばさん達のような裸体になっていると思う。
ま、私の場合は、今後も大勢の人のいる銭湯に行くことはないと思うので、
若い人を驚かすことはないだろう(^^ゞ
夏子
[No.3343]
なつかしい少女歌手たち
投稿者:男爵
投稿日:2018/03/01(Thu) 18:12
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画像サイズ: 631×800 (93kB)ひな人形を見に行ったら
そこに
昔の少女歌手たちの似顔絵がありました。
古賀さと子、松島トモ子....
[No.3342]
Re: 神戸・淡路大震災
投稿者:男爵
投稿日:2018/02/14(Wed) 05:59
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Panさん、まやさん おはようございます !
> あのころはパソコン通信が始まったばかりで、幾つかのニフティサーブが
> 開催していたボードのいろんな会議室に神戸地区の会員がいろいろ書き込ん
> でいました。それも長田区在住の会員は明石まで行って書き込みしてくれて
> いたようです。
あのころは
大学のインターネット構築の仕事をしていました。
大学のIPアドレス獲得 仙台との回線テスト 学内メールアドレス配布 などなど
神戸・淡路大震災に関して
ネットニュースではfj.misc, tnn.disasters.earthquake, fj.sci.geoで
情報の交換が 行なわれていました。
そのころの記録を少しとってあるのですが
いつか整理したいと思います。
---------------------------
Date: 29 Jan 95 13:00:29 GMT
また、神戸の小学校に行ってきました。
前回から変わった点について
ボランティアの人数が増えた
ただし昼間の数時間に10〜20人で来る団体などで、大局的な仕事は
任せられない(もちろんそういった人達も必要ですが)。
出来れば長期(1週間でも)の人がとても必要。
トラックの数が多少減った(感じ)
おにぎりなどの在庫が、少ししんどくなっている。
しかしこれについてはたいへんに注意が必要で、3日分以上たまりすぎると
その処理(?)でいろいろ大変になる。
住民の要望が多岐にわたって、増えてきた
細かい物は当然必要になってきます。
横の連絡が幾らか出来る
区(?)役所の人間が昼間は常駐しています。しかし特別な連絡方法が
あるわけではなく、トップダウンの情報が主。
たまに、ネットワーク系の人間が来ます。念のため言っておきますが、
援助の体制は結局人間と人間です。精力的に動いているようですが、
ネットワークは物でしかないことを、分かっておいてください
(何かを批判しているわけではありませんが)。
トラックの運転手に聞くと2号線は流れる時もあり,そうでない時もある。
やはり車でくるのはやめましょう。
一番のおすすめは西宮北口の貸し自転車です。2日間無料。
[No.3341]
Re: 神戸・淡路大震災
投稿者:まや
投稿日:2018/01/17(Wed) 22:29
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Panさん、こんばんは!
> あれから23年経ちました。
>
> 私はイギリスへ出掛けていたときで何も判らず、毎朝のように朝起きて
> 直ぐに日本の会社に電話を入れました。 日本時間の午後4時頃だった
> とおもいます。
まぁ、イギリスにお出かけでしたら、びっくりなさって、お気持ちも
落ち着かなかったでしょう。
あのころはパソコン通信が始まったばかりで、幾つかのニフティサーブが
開催していたボードのいろんな会議室に神戸地区の会員がいろいろ書き込ん
でいました。それも長田区在住の会員は明石まで行って書き込みしてくれて
いたようです。
私は地震が始まったばかりの時間にはもう起床していて、三宮辺りを映し
出すテレビの映像を「あゝ、焼ける、早く消防車が来ないと・・・」と叫び
ながら見ていました。学生時代に友人たちとよく行った食堂などがある一帯
が写っていましたから、気が気ではなかったのですが・・・
それから、何人かの友人知人への小包造り・・・主として飲用水、水のいら
ないシャンプー剤など、すぐにでも欲しいものを少しだけ(私の懐の許す範囲
で)送ったのを覚えています。
数年前、母校のホームカミング・デイに神戸を訪れましたが、すっかり町の
姿は変わっていて・・・私はあくまで訪問者にすぎませんでした(あたり前で
すけれど。。。)
まや
[No.3340]
神戸・淡路大震災
投稿者:Pan
投稿日:2018/01/17(Wed) 20:56
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みなさん、こんばんは。
あれから23年経ちました。
私はイギリスへ出掛けていたときで何も判らず、毎朝のように朝起きて
直ぐに日本の会社に電話を入れました。 日本時間の午後4時頃だった
とおもいます。
ところが、どうした訳か何回掛けても繋がらないのです。
北海道にいる長男に掛けても繋がらないので、その電話機が故障してい
るに違い無いと思い、少し離れた次男の下宿へ行って見ました。
次男も何のことか判らず、何の気なしにテレビの電源をいれて肝を潰し
ました。
阪神高速道路高架が折れ曲がって倒壊した光景でした。
***** Pan *****
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