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[No.2662] 日光写真 投稿者:Pan  投稿日:2015/11/18(Wed) 23:46
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こんばんは。

 子供の頃「日光写真」と言うので遊んだことを思い出しました。

 専用の印画紙にネガ・フイルムを重ねて、暫く直射日光に当てておくのです。

 ネガ(種紙)も印画紙と一緒に幾らか買ってくるのですが、同じ物ばかりで
は面白く無いので、ブローニ判半裁の本当の写真のネガを当ててみたら、何と
か見られる写真になりました。

 今でもそんな玩具を売っているのかと思ったら、100均ショップにもあり
ますね。

 印画紙は感光式コピー用紙を使い、アイロンで加熱して現像するようです。


   ***** Pan *****


[No.2663] Re: 日光写真 投稿者:KOZARU  投稿日:2015/11/19(Thu) 10:31
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Pan さん みなさん
>
>  子供の頃「日光写真」と言うので遊んだことを思い出しました。
>
>  専用の印画紙にネガ・フイルムを重ねて、暫く直射日光に当てておくのです。
>
>  ネガ(種紙)も印画紙と一緒に幾らか買ってくるのですが、同じ物ばかりで
> は面白く無いので、ブローニ判半裁の本当の写真のネガを当ててみたら、何と
> か見られる写真になりました。
>
私も同じもので遊んだ記憶があります。
社会人になって(昭和30年代前半)職場では「青焼きの図面」が残っていました。同じ原理のように記憶しています。
当時のコピー図面は時間がたつと色あせるので一部の重要なものは青焼にと指示を受けた記憶があります。
CADで図面を作る現代では隔世の感があります。
昭和50年代、古い設備を検討するときメーカーの技術者が青焼きの図面を持ってきたと記憶しています。
KOZARU


[No.2665] Re: 日光写真→青写真 投稿者:Pan  投稿日:2015/11/21(Sat) 11:11
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KOZARUさん、みなさん こんにちは。

> 私も同じもので遊んだ記憶があります。
> 社会人になって(昭和30年代前半)職場では「青焼きの図面」が残っていました。同じ原理のように記憶しています。
> 当時のコピー図面は時間がたつと色あせるので一部の重要なものは青焼にと指示を受けた記憶があります。

 その機械は会社中に1台しかなく、いちいち伝票を書いて上司の判
を貰うのが面倒でした。  予算制限もありました。

 会社へ入った頃、最初の専門書(英文)輪読会の本は海賊版を各自
一冊買いましたが、どんな方法でコピーしていたのでしょうね?
 勿論違法でした。

 今のようなコピペなんて夢の夢の世界です。

 反射式が出来るようになったとき、原理を考えた末、上面に透明ガ
ラスをはったベニヤ板の箱を作り、中に蛍光灯を入れました。

、印画紙と本のページを重ねて撮すと本のコピーが出来るようになっ
たので、輪読会などで大活躍しました。

 それ以前は謄写版(ガリ版)で刷るより仕方なかったのです。

 設計図などは全部青写真でしたね。 
 小説などでは、設計図=青写真で通りました。


  ***** Pan *****


[No.2667] Re: 日光写真→青写真 投稿者:まや  投稿日:2015/11/21(Sat) 12:48
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Panさん、KOZARUさん & みなさん こんにちは!

> > 私も同じもので遊んだ記憶があります。
> > 社会人になって(昭和30年代前半)職場では「青焼きの図面」が残っていました。同じ原理のように記憶しています。
> > 当時のコピー図面は時間がたつと色あせるので一部の重要なものは青焼にと指示を受けた記憶があります。
>

 Panさんが書いておられる日光写真にはかすかに記憶があります。
 戦前の子供の頃の記憶です。写真のネガで遊んでいましたが、本当の印画紙は高価
でしたから、あまり遊べませんでした。

 そして戦後のブループリント。これは製図関連でよく使われていたように記憶して
います。それで、私にはあまり関係のない仕事と割り切っていました。ただ、いろん
なことに計画とか計画書というような意味で「青写真」という言葉が使われていたよ
うに思います。

まや


[No.2668] Re: 日光写真→青写真 投稿者:男爵  投稿日:2015/11/21(Sat) 15:54
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Panさん

>  子供の頃「日光写真」と言うので遊んだことを思い出しました。

>  専用の印画紙にネガ・フイルムを重ねて、暫く直射日光に当てておくのです。

日光写真のネガ・フイルム、といっても、ぺらぺらのセロファンみたいな
薄い紙でしたが
それを少し持っていて、父が近所の子供たちに与えていました。
 父は駄菓子屋ではなく、学校の教師でした。

父の遺品の中から、それを見つけたことがあります。
四国の大学の先生にあげたら「懐かしい」と言われました。

KOZARUさん
>社会人になって(昭和30年代前半)職場では「青焼きの図面」が残っていました。同じ原理のように記憶しています。

思い出して
当時の図面や計算書や大学時代のプリントなど
調べてみました。

私の場合 昭和40年代から0年代まで
研究論文や報告書や講義の資料などのコピーとして
この青焼きはポピュラーでした。

講義資料の青焼きコピーの原紙をつくるのが大変だったと思います。
特殊な機械が必要?

学会の論文を投稿するときも、査読者三人のために
それぞれコピーしなくてはならず、その上自分の保管用にもコピーしたので
学会の論文の原稿用紙は薄い紙でした。
この薄い原稿用紙に書いて、青焼きの機械でコピーしたのです。

いまのようなコピー機が普通になったのは
その後だと思います。