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[No.3095] 国民病「結核」 投稿者:Pan  投稿日:2016/09/28(Wed) 21:26
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みなさん、こんばんは。

 明治時代から昭和の中頃に掛けて、日本人の国民病でした。

 学校や職場では、毎年ツベルクリン反応やレントゲン写真を撮
られ、就職してからは、会社で私の友人が結核と診断され、強制
的に休暇が与えられて、郊外の静かな療養所で治療していました。

 堀辰雄の代表作『風立ちぬ』等の文学作品は、結核が無かった
ら代に出なかったですね。(^^)

 私も中学生2年生だった戦後すぐに微熱の続いた時、肺浸潤と
診断されて、休学しました。

 当時の感覚では死を宣告されたに近かったので、母が心配して
栄養を採らねばならないと、無理をして炒り子を大きな袋に一杯、
闇で買ってくれ、私だけが1日2匹程度を火に炙って食べた時期
がありました。

 そのお陰で、この歳になっても生きています。

  ***** Pan *****


[No.3096] Re: 国民病「結核」 投稿者:まや  投稿日:2016/09/29(Thu) 09:08
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Panさん、お早うございます。

>  明治時代から昭和の中頃に掛けて、日本人の国民病でした。
>
>  学校や職場では、毎年ツベルクリン反応やレントゲン写真を撮
> られ、就職してからは、会社で私の友人が結核と診断され、強制
> 的に休暇が与えられて、郊外の静かな療養所で治療していました。

 そのようですね。私が大学卒業してほどなく働いたことのある病院にも、
若い人が大勢、結核患者として入院していらっしゃいました。

>  私も中学生2年生だった戦後すぐに微熱の続いた時、肺浸潤と
> 診断されて、休学しました。

 そうですか。私は問題にされませんでしたが、兄(昭和2年生)は中学
校時代に微熱が続いて寝汗をかいていたので、父は肋膜炎を疑ったようで
す。(病院に行ったのかな?)

「炒り子」と言えば、食糧難の時代に父が唐津まで出かけていき、遠縁の親
戚から、「炒り子」を一袋分けてもらって持って帰ったことがあります。そ
の煮干しは特別の味だったような?
 我が家では煮干しの頭と腸を除去して炒り、焙った青のりや炒りゴマを混
ぜてふりかけを作っていましたから、そのときの「炒り子」も「ふりかけ」
になったのかも? もう戦前のはるか遠い記憶です。

まや


[No.3099] Re: 国民病「結核」: 滋養 投稿者:Pan  投稿日:2016/09/29(Thu) 11:12
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まやさん、ザックスさん、みなさん こんにちは。

> そうですか。私は問題にされませんでしたが、兄(昭和2年生)は中学
>校時代に微熱が続いて寝汗をかいていたので、父は肋膜炎を疑ったようで
>す。(病院に行ったのかな?)

 似たような病気ですね。 今でも無視できないそうです。

> 我が家では煮干しの頭と腸を除去して炒り、焙った青のりや炒りゴマを混
>ぜてふりかけを作っていましたから、そのときの「炒り子」も「ふりかけ」
>になったのかも? もう戦前のはるか遠い記憶です。

 頭から全部食べましたよ。(^-^)

 全てが滋養でしたから。  最近「滋養」と言う言葉を聞きませんね。(-_^)
 良い単語なのですが。


   ***** Pan *****


[No.3105] Re: 国民病「結核」: 滋養 投稿者:男爵  投稿日:2016/09/30(Fri) 14:41
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Re: 国民病「結核」: 滋養
画像サイズ: 442×356 (36kB)
Panさん、まやさん、ザックスさん、みなさん こんにちは。

> > 我が家では煮干しの頭と腸を除去して炒り、焙った青のりや炒りゴマを混
> >ぜてふりかけを作っていましたから、そのときの「炒り子」も「ふりかけ」
> >になったのかも? もう戦前のはるか遠い記憶です。

>  頭から全部食べましたよ。(^-^)

ネットにふりかけの作り方が載っていましたが
それにも頭などカットしてミキサーにかけていました。
https://www.youtube.com/watch?v=Lf846zzuKss


しかし
魚一匹丸ごと食べるのがよいようです。

ある本を読んだとき
その本はお医者さんの書いた本ですが
職業柄、兵隊の体格を調べていると
漁村出身者がおしなべて立派な体をしていたそうです。

それは小魚をまるごと食べているからだと
お医者さんは推定しています。
たとえ小さな魚でも、丸ごと食べるのは栄養的にもよいことなんだそうです。
(栄養をむだなく摂る)

>  全てが滋養でしたから。  最近「滋養」と言う言葉を聞きませんね。(-_^)
>  良い単語なのですが。

斎藤茂太の本には
おいしくない食べ物でも、「美味ではないが滋味だ」と思って食べたらよいと書いてありました。
それから私も滋味の体験をしています。  (^^)


写真は
山人さんたちと韓国に行ったとき、釜山の港でお土産を買う場面でした。


[No.3097] Re: 国民病「結核」 投稿者:ザックス  投稿日:2016/09/29(Thu) 09:14
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みなさん、こんにちは。

>  明治時代から昭和の中頃に掛けて、日本人の国民病でした。

>  堀辰雄の代表作『風立ちぬ』等の文学作品は、結核が無かった
> ら代に出なかったですね。(^^)

本当に。ロマンティックな病気でもありましたね。

>  私も中学生2年生だった戦後すぐに微熱の続いた時、肺浸潤と
> 診断されて、休学しました。

よく結核と言う言葉を嫌って初感染とも言いましたね。

>  そのお陰で、この歳になっても生きています。

私もその口です。でも休学のお蔭で友達が増え、彫刻家や絵描きや音楽好きの
友達が増え、自分の中身が豊かになりました。


[No.3103] Re: 国民病「結核」 投稿者:Pan  投稿日:2016/09/29(Thu) 20:26
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ザックスさん、七君さん、まやさん、みなさん こんばんは。

>>  堀辰雄の代表作『風立ちぬ』等の文学作品は、結核が無かった
>> ら代に出なかったですね。(^^)
>
>本当に。ロマンティックな病気でもありましたね。

 「不如帰」の浪子さんと言い、文学上では死病の割にはロマンチックでしたね。(^-^)

 幕末の闘士やその後の文士も結核死亡者もヤケに多い気がします。
 今のガンに劣らない死病だったと思うのですが。

>>  私も中学生2年生だった戦後すぐに微熱の続いた時、肺浸潤と
>> 診断されて、休学しました。
>
>よく結核と言う言葉を嫌って初感染とも言いましたね。

 そんな呼び方もあましたか? 当時もレントゲン写真はありましたね。

>>  そのお陰で、この歳になっても生きています。
>
>私もその口です。でも休学のお蔭で友達が増え、彫刻家や絵描きや音楽好きの
>友達が増え、自分の中身が豊かになりました。

 休学直ぐから退屈で、最初の半月ほどは寝て過ごしましたが、週一回国鉄に乗
って隣町の病院へ通う時も無蓋貨車に乗って、走っている間に隣の貨車に乗り移
ったり、機関車の前の連結器に乗ったり。

 そう言えば、当時の国鉄は大変で、客車にはデッキの取っ手に片手で掴まるだ
けでも大変でした。 田舎では短距離客には貨物列車に積極的に乗せていました。

 母方の里が養鶏、養蚕、山羊から通常の農家まで実地に体験したので、一通り
の事は覚えました。

 それが後の健康に役だったようです。 その一年に身長も10センチ近く伸び
たような感じです。

 結果的に逆療法だったのでしょうか?

 今思えば、病気になっていなければ、そのまま順調?に虚弱児のままで過ごし
ていたような気がします。(^-^)

   ***** Pan *****


[No.3101] Re: 国民病「結核」 投稿者:七君  投稿日:2016/09/29(Thu) 14:04
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Panさん、みなさん こんにちは

>  明治時代から昭和の中頃に掛けて、日本人の国民病でした。
>
>  学校や職場では、毎年ツベルクリン反応やレントゲン写真を撮
> られ、就職してからは、会社で私の友人が結核と診断され、強制
> 的に休暇が与えられて、郊外の静かな療養所で治療していました。
>
>  堀辰雄の代表作『風立ちぬ』等の文学作品は、結核が無かった
> ら代に出なかったですね。(^^)
>
>  私も中学生2年生だった戦後すぐに微熱の続いた時、肺浸潤と
> 診断されて、休学しました。

そうだったのですか。大変だったですね。

私も、戦後、何度か寝込みましたから、旧制高校を4年、旧制大学を5年やりました。
妹は、小学校高学年で発病し、大分寝ていました。
戦中でしたが、患者に卵の配給があり、切符?を貰って、何度か、西賀茂の養鶏所へ
直接買いに行きましたっけ。
結婚もし、子供も出来ましたが、晩年、腎臓が悪くなり透析までしましたが、
86才近くまで生きました。

>  当時の感覚では死を宣告されたに近かったので、母が心配して
> 栄養を採らねばならないと、無理をして炒り子を大きな袋に一杯、
> 闇で買ってくれ、私だけが1日2匹程度を火に炙って食べた時期
> がありました。
>
>  そのお陰で、この歳になっても生きています。

良かったですね。私も、戦中戦後のひもじかったのが体力をつけたのかな?と
思う位です。