昭和時代の回想
▼物心がついたのは、3~4歳くらいで、昭和21年 ~22年ころであった。
その頃は、家族で戦時疎開していた時代で、今日の行政区分では
福岡県朝倉郡筑前町あたりであった。
筑前町には母方の先祖の家があり、そこへ身を寄せていた。
▼祖父と父親は、戦前は福岡の中心的繁華街の東中州人形町に店舗を構えていた。
今日で云う生菓子の製造・直売で、それなりに成功していたらしい。
当初は福岡県飯塚市で事業を開始し、それなりに成功し、
祖父は星雲の志を抱いて東京進出を考えたらしい。
▼ところが東京の地価が想像を超える価格だったので諦め、
九州一の繁華街の東中州で開業したという話を、母から聞いたことがある。
▼やがて福岡市街も空襲があり、焼け出されて
母方の実家があった福岡県朝倉郡筑前町へ一時的に身を寄せていた。
そして今日で云う農協のようなところから依頼され、一時的に大きな精米所を任されていた。
▼この精米所の前が、子供目線では先が見通せないほど広大な広場で、
所々に大きな穴が開いていた。
これが、かつて東洋一と云われた「陸軍大刀洗飛行場」であった。
▼この飛行場から「海軍鹿児島基地」の鹿屋空港へ戦闘機が飛び立ち、
やがては南海の空へ特攻機として散っていったという歴史があります。
▼私の叔父たちは、士官学校卒の軍人だったため、終戦直前に南方方面に派遣され、
あえなく戦没者の仲間入りしている。
- Joyful Note -