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伯母一家のこと 投稿者:ぶんちゃん 投稿日:2024/07/25(Thu) 11:36 No.37

私の伯母(父の姉)一家は千葉市に住んでおりました。伯母の連れ合いは蒸気機関車の機関士として国鉄に勤務、夫婦共に真面目で温厚、戦前は2人の息子と2人の娘との家族6人で、幸せな家庭生活を営んでおりました。

やがて、長男が陸軍に徴兵されて中国(当時は支那と呼んでいました)へ。次ぎに大学に行っていた次男が学徒出陣で海軍へ入隊、内地での訓練を終えたあと、台湾へ向かうべく乗船した輸送船が潜水艦に攻撃されて撃沈、彼も船と共に海の藻屑と消える。

長女は3月10日の東京大空襲で嫁ぎ先で焼死、次女は病死でしたが、僅かな間に息子一人と娘二人が次々と亡くなってしまいました。

不幸はそれに留まることなく、千葉への初めての空襲の際、近くに落とされた爆弾の破片が屋根を突き破って、居間にいた伯母の足に食い込み、その破片を除去する手術を受け、入院中だった病院が次の空襲で焼失、伯母と付き添っていた伯父共々病院内で焼死したのです。

長男は支那からビルマ(現ミャンマー)とインドとの国境にあるインパールへ。しかし食料も弾薬の補給も無いままでの戦い、戦友の多くが戦死ではなく、栄養失調死又は支給された手榴弾による自死だったそうですが、彼は奇跡的に助かり帰国しました。

でも彼の帰国を待ち受けていた筈の家族は誰一人としておりませんでした。家族に代わって私の父とご近所の方とで出迎え、一連の事実を伝えたとき、こんな悲しい思いをするんだったら、いっそ戦地で死んでしまったほうが良かったとつぶやいたそうです。

あの戦争での日本人の死者は三百万人にも及びました。ですから、この伯父一家のようなケースは特別ではなく、多数あったことと思われます。

改めて申すまでもなく、原爆では広島では凡そ14万人、長崎では凡そ7万人もの人の命が失われました。一瞬にして消滅した家庭が多数あったことは確かです。

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