子どもたちの幼少期、三重県鳥羽市在住時に在籍していた「鳥羽こども劇場」(今は無い)の1980.12.1に発行された文集 『はまなでしこ』 第2号に「お母さんから子供への手紙」と題して親たちが書き記したものの中、私が投稿していた“作文”を、世界のあちこちが何やらきな臭い今、ここにアップしておこうと思う。
「ある日の雑記帳から」
夕焼けの、オレンジ色の空を見ると、思い出すひとつの空があります。
それは、幼い心に焼きついた京・伏見区の生家の前から見える大阪の街をこがす戦火が染めぬいた、焼けただれた空の色。
あの空の下で、何人の人が殺されて行ったのでしょう。
今も、母の作ってくれた頭巾の色や柄を覚えています。あのような物を再び被りたくも、わが子にかぶせたくもありません。
師団街道を南から北へむかう国防色のトラックには、いつも髪は焼けちぢれ、顔が赤くずるむけたいやな言葉ですが、敵国の兵隊たちが棒立ちのまま、文字通り棒か杭のように満載されていました。
撃墜された戦闘機からひっぱり出された、わずかながらも命の残された人たちだったのでしょう。そのトラックを見て、我ら多くの者が拍手をしてはやしたてたものでした。
きっとその頃、アメリカやイギリスなどでは日本兵も同じ目にあっていたでしょうに。
「空襲警報」の声であかりを消した家の中。防空ごうの暗やみの色、そして、空を走るサーチライトの光の色、これもいまだに忘れることのないイヤな色です。
原爆投下の標的に京都も候補に上がっていたと知ったとき、三十四年前にすんでしまった戦争に、背筋を冷たいものが走りました。
今日も世界のあちこちで、おろかな行為がくり返されています。富めるとも、貧しくとも、今、平和に暮らしていることのありがたさ。その時、もし、自分がこの世から抹殺されていたとしたら、今袖にすがるいとしい二人の子供はこの世に『生』をうけていなかったのでしょうから・・・
- Joyful Note -