戦後、物のない時代の懐かしい写真を、インターネットで見つけた。
「コークス」というものをご存じだろうか?
燃料として「石炭」を使っていた時代の話。
その「石炭」の燃えかすを「コークス」と言って、この「コークス」も
燃料として使用した。
私の生家は京都・伏見の京町10丁目。
同じ町内に『津田電線(“津田はん”と呼んでいた)』の伏見工場があった。
(この伏見工場は1912(明治27)年開設とある)
今朝、テレビの「平和祈念式典」で黙とうを捧げながら、ふと、戦後の事を
考え出し、食料どころか薪や炭も手に入りにくい時代、近所にあった『津田
はん』の「コークス拾い」で、近隣の者はずい分助けてもらったな・・・と
思い返した。
今はその跡地は住宅が立ち並んでいて、昔の面影はないが、「津田はんは今も
あるのかな・・・?」と、インターネットで調べたら、京都・久御山町に今も健在!
嬉しくなってきた。
“伏見工場”は1967年に閉鎖されていたが、戦後の物のない時代、燃料と
して使われた石炭の燃えかすを、京町通りに面した工場の一角に山のように
放り出してくださる。 (今なら消防署からの禁止令が来るだろうな)
今思うと、何か合図を出して下さっていたのかもしれないが、私、当時6-7才前後
では何も覚えていない。
手に手にカネのバケツと小さい熊手やスコップを持ち、手には火傷防止の軍手を
はめて、少しでも多く集めたい家は小さい子まで動員して、その「コークス」の
山に取りついた。
冷めると白っぽくなって、これを「七輪(コンロ)」で燃やすと再び赤々と今の
木炭以上の火力になって、煮炊き物をするのに欠かせないものだった。
私も遊び半分で何度か手伝ったことがある。
何と言っても「レクリェーション」のない時代、これも子供たちにとっては、
コミュニケーションの場、楽しいレクリェーションになっていた気がする。
子供たちが“縦にも横にも繋がっていた時代”の切ないけれど、楽しい話。
そのまま横丁の広場や路地裏、伏見ダムの広場へ行ってはみんなで遊んだものだ。
『津田はん』の地元住民への優しさだったのだろう。
今となると何もかもが懐かしい・・・
(2011.8.6 の私のブログから)
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