渥美半島の先端 伊良湖岬 数え年24歳の帝大生柳田国男は夏に 嵐の翌朝、波打ち際で椰子の実を見つける。 東京に帰った柳田が島崎藤村にこの話をする。 藤村は「その話を誰にも言わずに僕にくれ」と頼む。 そしておよそ2年後(1900)「椰子の実」の詩ができあがる。 曲は大中寅二が1936年につけ、国民歌謡として広まる。
いっぽう柳田も、 椰子の実が黒潮にのってやってきたように 日本民族の祖先も南からきたという「海上の道」 の仮説を立てる。
仲のよい文学仲間だった柳田と藤村は、のちに絶交することになる。 帝大卒の柳田はやがて貴族院書記官長に出世する。 台湾に旅行したとき、藤村から手紙が届き 台湾で自分の兄が会いたいと言うから、ぜひ会ってほしいと頼む。 はたして、藤村の兄は山の払い下げを台湾総督に願い出たい ので、柳田から総督に口添えしてほしいと頼む。 役人としてそういう不正はできないと柳田は断り 以後藤村との仲も絶交したという。 (椰子の実は、柳田国男の話がヒントということは知っていたが、二人が絶交したのは知らなかった)
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