[No.1563]
Re^6: 日本原子力文化振興財団って
投稿者:オアシス
投稿日:2004/08/25(Wed) 22:01
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| えーさん、 年金青年さん みなさん こんばんは。
戦後の食糧事情は都会と農村部で相当な開きがありました。 それと、その時期を迎えた年代によって受け止め方も違って いたように思います。
云えることは 1000万人餓死説が流布していた食糧事情 だったという事です。
私は1932年(昭和7年)生まれ。昭和21年、22年に 過ごしたのは京都市伏見区です。中学2年、3年前半です。
戦禍は逃れたものの 都会暮らしは食べるもの、口に入るもの なら何でも食べるに近い状況でした。
配給は途切れがちでしたが、豆かす(今では豚も食わない)や 芋(サツマイモ 農林○号というどでかい芋)、こっぺぱん、 雑穀、占領軍放出チーズやコンビーフ それに 土地柄お茶の 葉までもろもろ 1日2合1勺に換算して貰いました。
兎に角 飢えてました。 私は 南瓜の茎(トケトゲがあるのを剥いて)、サツマイモの 葉(おひたしに)や、雑草スベリヒユ(今では改良腫が園芸 店でポーチュラカと称して売っている)まで食べました。 草は 食べられる、食べられないが今でも判別できます。 野菜も手に入らなかったと云う事です。
食料事情だけでなく 驚くべきことですが、亡くなった人を 火葬場で荼毘に付すのに、燃料は家族が現物を用意せねば なりませんでした。 昭和22年父が亡くなり、温かい方の情け・努力で薪を用意 したんです。 全く怖ろしい時代、良く生き延びての今があると言うことで す。
内地で無事に命あって終戦を迎えて、なお悲惨極まりない 生活の数年があった事、今の飽食と比してまさに隔世の 感ありです。
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