えーさん 今晩は
天声人語も昔のように「風味」が無くなり、ただただ紙面の圧縮版の、 感じに落ちたのでは? そこで昨日の新聞を引っ張り出し、改めて読みましたがどうも戴けませぬな。
マタイによる福音書:19 「金持ちの青年」からの引用が冒頭に有りますが、 > > 「もし完全になりたいのなら」とイエスが言う。「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」。更に弟子たちに述べた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易い」。 >
これは最後の括りに書いてある村上氏の行動と、ウオ―レン・パフェット氏との、 「金融プロとしての姿勢の違い」を判定する「福音書天秤」と使う積もりなのでしょうか? 村上氏は株を売って貧しい人に施しをしないから「落第か=らくだ以下」で、 アメリカの大富豪はらくだに、くっついて針の穴をとおるかもしれない? と文面から取られかねない。
聖書の講釈をする柄ではないが、福音書19全文を読むと解りますが、 こんな所で利用されるのは、それも誤解を生むような引用には、 マタイも苦笑しているのでは無いでしょうか?
らくだ問答の続きには、驚いた弟子が「それでは誰が救われるのだろうか?」と聞き、 イエスは「其れは人間にできることではないが、神はなんでもできる」と答えています。 朝日の引用は福音書の切り張りで「貧しきものに施せば金持ちも神の国に、 いける」が如く書いていますが、イエスは安請け合いをしていません。
金持ちであろうが貧乏人であろうが、寄付をしようがすまいが、 神の国にはいることを決めるのは神のみであると言っています。 だからパフェットさんでも天国の入り口で最後の審判のときに刎ねられるかも、 知れません。 小賢しい金持ちの慈善事業を持ってしても神がお許しに為るかどうかは、不明です。
じゃーどんな人間が救われるのか、因果応報の仏教に馴染んだ日本人には、 解り難いが、其の点パウロは「外面的行動は問わず、内面的信仰のみで、 神は恩恵を与える」と説いています。兎も角神を信じる事が全てです。
関連するマタイによる福音書の言葉では、 5:山上の説教、「幸い」 「心の貧しい人々は、幸いである。 天の国はその人たちのものである。」
5:山上の説教、「天に富を積みなさい」 「あなた方は地上に富を積んでは為らない、・・・天に積みなさい。 さすれば、あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
イエスの言葉はアイロニーに富んでいますから、敬虔な信者様にしか、 「其の心は?」を解くのが難しく、益して今の天声人語には不向きでは?
35斉
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