我が生命の主人(主管者)
人々は大部分 自分の 生命の主人が誰なのかを分からないまま一生を生き去っています. もし誰かに『あなたは,あなた自身の生命の主人は誰だと思いますか』と聞かれますと、すぐ『そうですね。誰でしょうか,自身の生命の主は自分じゃないんですか』と答えるのが普通です。では次の質問に對してどう答えるでしょうか。
1.あなたは,男女の性を自ら選擇して生まれましたか? 2.どの國に生まれるとか、また、どの家門の子孫に生まれることを自ら決めて、その國の民に、その家門の子孫になりましたか? 3.自身の身體に對して,即ち循環系統, 神經系統, 消化器系統, その他複雜な臟器などがどうなっているのかを知っていますか? 4.自分の頭に髮の毛が幾つぐらいあるか知っていますか? 5.自分自身の生命がいつ、どこで、どうやって終わるかを分かりますか? 6.自分で自身の壽命を延長することが出來ますか?
以上のような質問に對して答える言葉は『いいえ』のことしかありません。 孔子も弟子季路が「死」に對する質問に、『まだ生も分からないのにどうして死が分かるものか?』と返答したと言います. 聖書には“あなたがたのうち誰が,思い悩んだからといって,壽命をわずかでも延ばすことができようか”といっています。人は自分自身の命をどうすることもできないのです。だったらどうして人は自分が自身の主人(主管者)と言えましょうか。
このごろ TVで 葬礼保険に加入しなさいという広告がよく出ています. そこで、ある年寄りの女性がこう言っています. “寝るように去ったらいいのですが、それが人の思う通りにできるものですか?” そうです. 人は自分の死に対してもよく分からないです. ある人は生まれ育ってくれた各自の父母が、人間自身の主人ではありませんかと言います。ではそのことを一度考えてみましょう。
四男三女を産んで育ったお婆さんに聞いて見ました。“長男を産む時, 息子を産もうと思って産んだのですか? また お腹の中の赤ん坊が息子であることを判ったのですか?” 答えは, “いいえ,全然判りませんでした”と、お婆さんは答えるのである。そうです。
聖書は、『姙婦の胎內で靈や骨組がどのようになるのかもわからないのに』と書いています. 身ごもる胎母さえ分からないと言うのは何を意味するのですか。それは父母が子供の生命の主とか, または主管者ではないと言う意味でもあります。お子さんを産みたくてもお子さんを産むことができない夫婦がいます. 息子を産みたくても息子を産むことができずに娘だけ産んでいる夫婦がいるかと言えば, 反對に娘産みがほしくても娘を産むことができずに息子だけ産んでいる夫婦がいます. これは親がお子さんの生命の主ではなく, また主管者でもないし,生命の主人が別に存在するということを意味するのです. ではいったい人間, またあらゆる生命の主人はどなたなのですか?
或人は万物は自然に出來たと言います。果たしてそうであろうか? 私は胆石のために胆嚢を切除する手術を受けました. 手術を受けた後, 一体胆石がどうして生じ, 胆嚢と胆汁の機能は何やら分かろうとして, 大百科事典を開いて見ました. そこで驚くべきな事實を見つけたのです.
胆汁が細い胆管を通じて下がるのに, それが膵臟を經過して十二指腸に繫がれていることが分かるようになりました. どうしてこんなに纖細にできているのだろうか? これがどんなに自然に出來ていると言えるのだろうか?
私は一年前から手指鍼を習っています。ヘえてくださる先生はキリストヘ信徒ではないんですが, 人體の構造とその機能について說明しながら “造物主が人の体をとても不思議に,神秘的に造った”と時折りにおっしゃったことがあります。
私は舊約聖書のなかにある次の言葉をおぼえています。“あなたは,私の內臟を造り、母の胎內に私を組み立ててくださった。私はあなたに感謝しています。私は恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか私の魂はよく知っている.” “驚くべきものに造り上げられている”と言うのを韓國語では “神妙莫測”と表現しています。
月に行ってから戻って来る宇宙科學時代であるが, 人間は科學の力で, 芽を生やし, 葉が出て, 莖が伸び, 實を結ぶ生命のある一粒の小麥さえ作ることもできません. 人の腕前では美しい 造花は造り上げます. しかしいくら 造花が美しくても, 蝶と蜂が訪ねて來ないのです. 造花には生命がないし、香りもないからです. 人を含めて宇宙の中に存在する獣や昆虫に至るまですべての生命ある存在の根源は一体何でしょうか?
尊い命, その命の主人(主管者)は どなたでしょうか? 普通に呼ばれるのは,『造物主』或は神樣です。昔から『造物主』また『神樣』の存在について色色と話されています。哲學者達は, 次のように語っています。又, それぞれについての聖書の内容から調べて見ましょう。
1.宇宙論的論證: これはあらゆる物の存在はその原因がある。またその原因を生じた原因の原因がある。その上のない第一の原因が『造物主』だと言うのが宇宙論的論證です。これについて聖書は,“不義によって眞理の働きを妨げる人間のあらゆる不心信と不義に對して,神は天から怒りを現します。なぜなら,神について知りうる事柄は,彼らにも明らかであるからです。神はそれを示されたのです。世界が造られたときから,目に見えない神の性質,つまり神の永遠の力と神性は被造物に現われており,これを通して神を知ることができます.”と
2.觀念論的論證: これを本体論的論證といいます。即ち人間の觀念の中にあるものはその本体があるからという論據なのです。例えば觀念の中に三角があるのは實際の三角があるからと言うのです。デカルト [Descartes, René]は懷疑する精神を立てて ‘私は思う. だから私は存在する’と言う有名な命題に到達した. 東西古今を限らず人の心には永遠を思う心があります。それは永遠があるからです. 使徒パウロはアテネ市內の至るところに偶像があるのを見て、アテネの人たちにこう言いました。“アテネの人たちよ, あなたがたは, あらゆる点において, すこぶる宗ヘ心に富んでおられると, 私は認めます, 道を通りながら, あなたがたの拜む色々なものを, よく見ているうちに『知られない神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです”と語られています. 宗ヘ心とは,人の心の中にある『神意識』です。人に永遠を思う心があるとか, 神を意識するというのはその本体があるからです。
3.目的論的論證:これはあらゆる物にはその存在の目的があるのを見ながら,それが偶然に出來ず, かならずそれが存在するように意匠した方がおられる筈だという論法です。例えば私達の齒列を見れば前齒は何かを齧るようになっているし, 奧齒は碾き臼のごとく前齒で噛み入れたものを詛嚼するように平たい形です。これが偶然にできたとは言えないのです。偶然にできた物はごちゃ-ごちゃです。宇宙にあるものはその存在目的があるし、格好よく秩序整然であるのは万物を存在するように意匠した方が必ずおられるからです。
4.道コ論的論證: これは イマヌエル・カント(Immanuel Kant)が主張した論證といいます. 人が密かに心の中で何か惡いことを考えているとき,“だめ!そうしてはいかん!”と拒否權を行使するのが, 他人ではなく自分自身です. それを勘案して見る時, 宇宙には必ず善と惡を判斷する方がおられるというのがこの道コ論的論證です.
聖書には、“すなわち,律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても,彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心に印されていることを現し、そのことを彼らの良心も共に証をして、その判斷が互いにあるいな訴え、あるいは弁明し合うのである”と、また、“人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている”とか、世界の終末には必ず人達の行いに應じて裁かれることが教えられています.
そうです。尊い生命の主人は, 宇宙とその中にある万有を造り, 又それを主管、摂理している方、「造物主」即ち 生きておられる神様でございます。
昔、日本では大事な事の責任を負って切腹するのを美コと考えていたのをみますが、この頃、韓國では生活苦による高齡者の自殺事件が頻繁に起こっているし, 中等學生, 高等學生等が成績のために,または暴力とか仲間外れにされたりして自殺する事例が多くなりました。
自殺というのは、言い換えれば自分勝手に生命を断つのは、生命の主人(主管者)の主権を無視する罪を犯すことになります。ですから自殺をするのはいけません。
人は自分の命を大切に考えています。4〜5才の幼い子たちも死ぬことを怖がるのです。韓国では 臨死呼天(死に臨んで神に助けを求める)と言う言葉があります. 老僧が、‘南無阿彌陀仏南無阿彌陀仏’を口ずさんで、氷が張った漢江を渡っている途中、氷がチチツと音がすれば “アア, 神様(하나님)!”と言うという話があります.
概して人々は、神様を知らないまま暮らしています. それだけでなく却って神様がくやしくて残念に思いながら暮している人もいます. それで聖書ではこんなに言及しています.
「天よ!聞け!地!、耳を傾けよ!主が次のように語られたから、わ たしは苦労して、子を養い育てた、しかし彼らは私に背いた。牛も自分の飼い主を知り、ろばも自分の主はもちろん、馬草桶も分かっている。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない」
だから生命の主人が分からない人は,すみませんが「獣よりもできない者」と言うしかないのです.
人ごとには、 神を意識する心, すなわち神に対する神意識があります。使徒パウロがアテネン市を見回るうちに「知られざる神に」と刻まれている祭壇を見つけて、こう説いたのです。「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界とその中の万物とを作られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。…皆さんのうちのある詩人たちも...
『我らは神の中に生き、動き、存在する』『我らもその子孫である』と、言っているとおりです。私たちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。 そのとおりです。神の子孫である人は 当然 命の主人である神を頼って暮さなければならないでしょう。
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