正式な名前は キャンパス セクシュアル・ハラスメント 対応ガイド 七夕、荒城の月、蒲鉾の町の大学の先生の本。 読んだ感想は、この問題をよく分析しているが ものの考え方が常識的と言うよりは過激派(?) ・教授はオールマイティをいいことにしたいほうだい。 ・学生も若い助手も、しっかり教授に将来を押さえられているから何も言えない。 ・学内の委員会はあてにならないから、外部の被害者支援グループに相談すべし。 ・隣りに女子学生を座らせ酌をさせたら、もうセクハラ。 ・今日はきれいだね、と言ったらセクハラ。 ・男の教授が男子学生の異性関係のことを質問してもセクハラ。 ・ホモセクシュアルは反社会的だと発言したらセクハラ。 −−−−− そこの社会では常識的に認められていても 外国人には受け入れられないことがある。 この本ではないが、ある本を読んでいたら 中国の大学の寮で、当番でみんなで廊下の掃除などするとき 韓国から来た男子学生は何もしないで女子学生だけ掃除をしていた。 それを指摘した在日の(女の)韓国人の目。 韓国系中国人の学生がいたら、どう思ったろうか。
教授が権力をもちすぎるからいけないという この著者は 教えた教授は自分で試験をしないで、他の教授が試験や採点を したらよいと提案する。 (私はドイツで語学学校の最終試験を受けたとき、教えてくれた先生の横に別の先生も座って、試験官の採点を客観的にみていた) まったく他人が試験をすると、冷静客観的かというというと そうではなく、指導教官が日頃の観察で、良い点を記憶していて 試験だけではないデータで総合判定してくれるが、まったく他人の 試験官ではそうはいかないだろう。せいぜい試験にたちあうくらい くらいがよいのだろう。
仏教でも、芸の道でも、結局は個人から個人に伝えられるもの。 それは他人にはできないもの。他人ができるなら、その人が師匠となって 弟子に伝えればよい。 人間から人間に伝える方式は、将来も変わらないだろうと思う。 学問が外圧を受けて偏しないように守られてきた学問の自治を 悪用してセクハラする教授はそれは悪いが、それだからといって この人から人に伝える方法は、やはりこれしかないと私は思います。
レンブラントにしたって手塚治虫にしたって 将来のある弟子たちに自分の仕事を手伝ってもらいながら 彼らを育てて、弟子たちが一人前になっていく。 そこに他人が入って批評するのは結果の作品だけ。 教育の場合、結果とは卒業してから、本人が努力して獲得した 国家資格とか社会評価でしょう。大学教育中にあれこれ言うのは 雑音に近いのではないか(と現場の声を代弁してみました)。
京大の矢野教授の例は特別だが、全国的に毎年処分を受ける大学教員が報道されています。 つまりセクハラがなんたるかを認識していない教員が少なくない。
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