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  <title>メロウ伝承館　サイト - フォーラム - メロウ伝承館（体験・記録のデータベース） - [ 実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後） ]</title>
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  <lastBuildDate>Wed, 15 Apr 2026 16:08:41 +0900</lastBuildDate>
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    <title>叔父の話　　　　　　Arthur</title>
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    <description>叔父の話　　　　　　Arthur▼これは、特攻に行って帰ってきた叔父の話です。▼高倉健主演の「蛍」という映画をご覧になったでしょうか？特攻で生き残った主人公の生き様、戦友の家族を ...</description>
    <pubDate>Tue, 10 Oct 2023 23:56:21 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[叔父の話　　　　　　Arthur<br /><br /><br />▼これは、特攻に行って帰ってきた叔父の話です。<br /><br />▼高倉健主演の「蛍」という映画をご覧になったでしょうか？<br />特攻で生き残った主人公の生き様、戦友の家族を訪れ墓参をする、戦友は蛍になって帰ってくる。<br />この映画の一部は、叔父がモデルになっています。<br /><br />▼戦時中に叔父は、飛行訓練をあちこちでやり、大分の基地から南方のトラック島や歌になった<br />ラバウルなどの戦地へ行き、戦闘を経験している。この間何回も死地をさまよっている。<br /><br />▼最後は、鹿児島の国分基地から特攻出撃し、戦闘で傷を負い意識朦朧の体で知覧基地に不時着した。<br />知覧基地においてある零戦は叔父が乗っていた物だと思う。<br /><br />▼詳細は、叔父の書いた「水平線：ソロモンから沖縄特攻まで　<br />零戦・艦爆搭乗員の記録」という小冊子に記してある。<br /><br />▼題字は父が書いた物である。知覧の記念館に置いてあったと思う。<br />南日本リビング新聞社の刊行「零戦にかけた男」でもある。<br /><br />▼戦後、警察予備隊・自衛隊と仕え、退官後は日本国中の戦友の墓参りをされた。<br />海外のメディアや、米軍で沖縄戦で戦った元戦闘機乗りも叔父を訪ねてきた。<br /><br />▼「戦争は絶対にしてはならない」。激戦を必至でくぐりぬけた叔父の言葉である。<br />小・中学校での講演もずいぶんやった。<br /><br />▼数年前に亡くなったが、戦闘の傷跡の破片がたくさんあったと聞いている。<br />晩年の叔父に、どこか行きたいところはありませんか　と問うたことがある。<br />特攻の訓練をした台南に碑がある。そこに行きたい。残念ながら実現しなかった。<br /><br />▼気骨のある叔父であった。<br />]]></content:encoded>
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    <title>95歳の「戦争の思い出」　愛ちゃん</title>
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    <description>95歳の「戦争の思い出」　投稿者：愛ちゃん（京都） 投稿日：2023/08/24(Thu) 23:04 No.25 ▼私は、京都在住の一人暮らしで、2023年に95歳になりました。*********************************▼8月になると、７ ...</description>
    <pubDate>Fri, 25 Aug 2023 18:08:36 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[95歳の「戦争の思い出」　<br /><br />投稿者：愛ちゃん（京都） <br /><br />投稿日：2023/08/24(Thu) 23:04 No.25<br /> <br /><br />▼私は、京都在住の一人暮らしで、2023年に95歳になりました。<br /><br />*********************************<br /><br /><br />▼8月になると、７８年前の戦争を思い出します。<br />私は、女学校1年生（１４歳）の時、学徒動員で軍需工場へ徴収されました。<br />落下傘（パラシュート）と飛行機の布を織っていました。<br /><br />▼落下傘は、5ミリの糸の切れ目も許されません。<br />開いた時そこから破れるので、その人の命がかかっているのです。<br />飛行機の布は何に使うのか知らされず、ウワサでは木製の飛行機に<br />貼る布だったようです。　<br />ナイロンは戦後の商品で、当時は絹が繊維として一番強かったのです。<br />　<br />▼食事は、芋のつるやひじきに、お米が少し混じっているご飯と、<br />具のない味噌汁でした。<br />時には乾パン１袋だけの時もありました。<br />みんなお腹が空いて水をガブガブ飲み、青い顔をして、むくんで<br />栄養失調でした。<br />　<br />▼ハダカ電球の下で、厳しい立ち仕事で疲労困憊です。<br />クラス50名の生徒に1名の先生がつき、朝礼で日本軍の成果だけ<br />を聞かされました。　<br />新聞もラジオもないので、劣勢は知らされず・・・　<br />私達は腹ペコで、戦争どころでは無く、考える力も無く、ただただ生きていました。<br />　<br />▼大東亜戦争（太平洋戦争）　聖戦（侵略戦争）　玉砕（全滅）<br />神風（台風）　鬼畜米英〔強国米英）　何もかもの言葉ががウソでした。<br />　<br />▼女学生（１４歳～１６歳）の私達が造る兵器に頼らねばならない国が、勝てるわけありません。<br />戦争は、勝っても負けても人が死にます。<br />　<br />▼平和は、９５歳老女の唯一つの願いです。<br /><br />]]></content:encoded>
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    <item>
    <title>友人の９０歳のお母さんの戦災の思い出　　こうちゃん</title>
    <link>https://www2.mellow-club.org/densho/modules/d3forum/index.php?post_id=5821</link>
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    <description>■昨年亡くなった友達の、今年90になられたお母さんが平成27年に書かれた戦災の思い出です。　先日訪問した折、外部での公開のお許しを頂きましたのでテキスト化しました。＿＿＿＿＿ ...</description>
    <pubDate>Wed, 07 Sep 2022 10:52:41 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[■昨年亡くなった友達の、今年90になられたお母さんが平成27年に書かれた戦災の思い出です。<br />　先日訪問した折、外部での公開のお許しを頂きましたのでテキスト化しました。<br />＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿＿<br /><br /><br />1. 命からがら逃げた空襲の日　　　<br /><br />▼70年前の7月28日は、 一宮市内が空襲を受けて焼け野原になった。<br />　前日の27日、映画「花の講道館」を見に行ったが、 警報が出たため、 翌28日に 見に行った。<br />午後6時か7時頃に警戒警報が入ったので、<br />家でのんびりと本を 読んでいたところ、二度目(8時頃)の警報のサイレンが突然鳴ったかと思うと同時に焼夷弾の落ちる音と、<br />裏庭の方に火柱が見えたとたん、母と姉と私の三人は、電気 の明かりはそのままにして、 大あわてでお勝手道具を紐にぶら下げて、<br />掘り抜き井戸 に入れたり、商売道具の秤は表の用水路へ入れたりした。<br /><br /><br />▼その他のものは防空壕に入 れて、蓋をして土をかぶせたが、 あわてていたため、 しっかりと土をかぶせないまま<br />逃げてしまった。<br />貴重品だけはリヤカーに積み込み、その上に布団をかぶせて、 私一 人でリヤカーを引いて一目散に逃げた。<br />私は、 あまりも突然のことだったので、<br />大急 ぎでモンペを三枚重ねばきしたものの一枚は片足をはずしたまま逃げていた。<br /><br /><br />▼逃げる前方に火の手が上がり往く手を阻まれ、リヤカーを引くどころではなかった。<br />東海道線の踏切のところでうろうろしていると、近くの用水路の土管にいた人から、 「早くこっちに来い」 と叫ぶ声がした。<br />命が危ないので土管の中に入れてもらうと、 すでに5,6人ほどの人たちがうずくまっておられた。<br /> 火災の熱風で、土管の水がだ んだん生暖かくなり、恐ろしさのあまり私たちは震えていた。<br />土管の外側にいた人から、「おみゃーさんのリヤカーが燃えているぞ」 と言われたけ れど、焼夷弾の火の粉が降り続くので、<br />外に出て消すこともできず、リヤカーと貴重 品は焼け焦げてしまった。<br /><br />▼外が明るくなり、 焼夷弾も落ちて来なくなったので土管から這い出して、母と姉を 探すため、ふらふらしながら歩くと、<br />あちらこちらからブスブスと煙が立ち、焼夷弾 の焼け焦げた臭い油のにおい (ビニールの燃えたにおい) がたちこめ、 <br />周りには鉄の ゴロゴロと転がっていた。<br /><br />▼焼け残った立派な倉の扉を家の人が開けたとたん、 突然、 中から火を噴いて煙がも そうもうと上がったのでびっくりした。<br />防空壕に直撃弾が当たり一家全滅したという話 や、町内の警防団長さんが消火活動中に亡くなられたことも聞いた。<br />町内の人たちは 手の施しようもなく、 焼け跡に呆然と立っていた。<br /><br />▼家に着くと母と姉が焼け跡に立っていた。「お母さん」 と叫んで母に飛びつきました。 <br />私たち三人は抱き合ってワァーワアーと泣きました。<br />母は、私を抱きしめて 「日出子。 生きていてよかったね」 と言ってくれました。 私たち三人が無事に生きていたのが不 思議でたまりません。<br /><br />▼母と姉二人は、 家に火がついたので、 消そうとしたが、火の勢いが強くなり、 <br />手の 施しようがなくあきらめて押場通りを北の方へ逃げたと、話してくれた。<br />翌日、私は、焼け焦げた大黒柱や、くすぶっている2、3本の柱に水をかけながら 裏にあった小屋の防空壕を見に行った時、<br />誤ってくすぶっていた灰の中に足を突っ込 んでしまい、踵が火傷して水ぶくれになってしまった。 しばらく治らず、痛かった。<br /><br /><br />2.辛かったバラック小屋の生活          <br /><br />▼三河の方へ松の根ほりに出かけていた在郷軍人だった父が、 空襲後の2,3日過ぎたころに帰って来た。<br />家族4人無事であったことが何よりの喜びだった。<br />　さっそく、4人でバッラク小屋作り。 家の裏の丹菊工場が、 知らぬ間に軍需部品置き場に変わり、<br />鉄棒・鉄板 ジュラルミン板・銅板等が山積みになっていた。<br />　近所の人 たちとこっそりと鉄棒や鉄板をいただいて小屋の建築材料の一部に使った。<br /><br />▼半分に割れた瓦を泥土で積み上げて、 寒さ除けの囲いを作り、 黒焦げになった柱で バラック小屋を作った。<br />鉄板の上にムシロを敷き詰め四畳ぐらいの小屋が、 <br />私たち家族4人の仮住まいになった。<br />　幸い、井戸の中に鍋や、やかんなどを入れて置いたお蔭で、食事を作るのに助かった。<br />薪を燃やすために、マッチが手に入りにくかったので、「つけ木」 (うす板に硫黄をちょっとつけたもの)を使った。<br />　明りは灯芯にクジラ油をつけて火を灯もしたが、 油煙や、嫌な臭いが部屋中に立ち込めて大変だった。<br /><br />▼トイレは小便器用の甕があったので、 その周りを囲って簡単なトイレを作った。<br />紙 がなかったので、親戚の伯父からいただいたキング等の雑誌をトイレットペーパー代 わりした。手で紙をよくもんで使うのですが、 <br />ごわごわしてお尻を拭くのに苦労した。<br />　昭和21年の秋ごろまで、 バラック小屋で生活していたが、夏の暑さと蠅の大群、冬の大雪の日の寒さで、 大変辛い思いした。<br /><br /><br />3. 私の願い<br /><br />▼8月15日の青空の日。 町内で一軒焼け残った町内会長さんの家の前に集まり、玉音放送を聞いたが、雑音で意味がわからず、<br />ただ戦争が終わったことだけはわかった。<br />　それまで軍国少女を夢見て「いつ死んでも悔いはない」 と言っていたのが、嘘のよ うに思えた。<br />▼今振り返ってみて、何もない日本が、よくぞここまで発展してきたもの だと感心致している。私たちの年代は後残り少なくなってきたが、 <br />今の若い子どもたちには、こんな苦しみをさせてはならない。<br /><br />▼私の平和を願う一句。<br />「忘れまじ 飢餓と戦い焼け野原」<br /><a href="https://www2.mellow-club.org/densho/uploads/photos/2350.jpg" rel="external"><img src="https://www2.mellow-club.org/densho/uploads/thumbs/2350.jpg" align="left" alt="" /></a>]]></content:encoded>
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    <title>父の自分史　　　 　パープル</title>
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    <description>父の自分史 パープル　2022年8月7日 　（大正2年生まれの父　88歳の時作成した、自分史より）▼その１　小学校1年生の年末、当時世界的に流行したスペイン風邪にかかり危うく死ぬところだ ...</description>
    <pubDate>Wed, 10 Aug 2022 20:53:43 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[父の自分史<br />            <br />パープル　<br />2022年8月7日 <br /> <br />　<br />（大正2年生まれの父　88歳の時作成した、自分史より）<br /><br />▼その１<br /><br />　小学校1年生の年末、当時世界的に流行したスペイン風邪にかかり<br />危うく死ぬところだった。<br />　発病の数日前に校医から背中に予防接種を受けたが、<br />病原体がまだウイルスと分かっていない時代のことゆえ<br />この注射は無効どころか、かえって有害だったらしく、<br />背中が痛い痛いと言っているうちに発熱し、高熱に浮かされて<br />夜中に飛び起きたりした。<br /><br />　幸い命拾いして正月明けに登校してみると、級友の中に<br />同じ病気で死んだ者がいて、その席がぽっかり空いていたのが<br />妙に記憶に残っている。<br /><br />　人間も、80年以上生きていると、何度か死線を超えた経験が<br />あるものだが、私にとってこの時の病気が、第1回の<br />死線経験であったと思う。<br /><br /><br />▼その2（応召と陸軍嘱託）<br /><br />同じく父の自分史より<br />　昭和16年太平洋戦争が始まると、戦線は急速に拡大し<br />初期には優勢だったため、陸軍から占領地の<br />マレー半島に作る医科大学の要因募集があった。<br />それに応募して一応の内定の報を得たが、いくら待っても<br />正式の出発命令が来ない。<br /><br />　そのうち立川の第八陸軍航空技術研究所（医学専門）から<br />戦時研究要員として来ないかという話があり、応諾して<br />内定したところ、昭和18年秋突然召集令状（いわゆる赤紙）が<br />来てしまった。<br />　これは、あらゆる話に優先する命令なので、取り急ぎ富山の軍隊に<br />入隊してみると、医師ばかり30人のいわゆる懲罰召集だった。<br />3週間の軍事訓練と金沢陸軍病院における学科教育を経て<br />1か月後に帰郷を許されたが、早晩召集が来るから<br />覚悟しておけと言われた。<br /><br />　ところが、私だけは除軍の日に師団軍医部の幹部から面接を受け<br />福田教授の話によると、君は戦時研究要員として立川の研究所に行く<br />予定だそうだが、本当かと聞くから、その通りと答えると、<br />後で分かったことだが、名簿に延命と書き込んでくれた。<br />召集命令を延ばす意味だが事実は命を延ばすに等しかった。<br />それが無かったら当時の状況から、南海の孤島で戦死する<br />可能性が高かったのである。<br /><br />　召集から戻って間もなく上京し、立川の研究所に陸軍嘱託として勤め始めた。<br />ここは戦争に直結する最重要課題を研究する所で、中でも<br />低圧実験（高空を飛行するのと同一環境の装置内での人体実験）が<br />頻繁に実施された。<br />　私もしばしばそれに参加したが、相当に慣れた時の油断から<br />酸素の操作を誤り、（1万メートル以上の高空環境では<br />どうしても、酸素不測のため、頭がぼんやりする）<br />酸素吸入を自ら断ったため、直ちに失神昏倒した。<br />装置外の監視員が急ぎ急降下の措置を取って5分後に地上に戻り<br />息を吹き返したが、危うく死ぬところだった。<br />　それから1週間くらいは夢の中にいるような気持ちが続いたが、<br />徐々に自然に回復した。<br />　これが、私の人生中、第2の死線を超えた経験である。<br /><br /><br />▼その3<br />　昭和19年4月5日結婚にこぎつけた。<br />戦争末期の万事不自由な時代ゆえ、ホテルの1室に<br />近親だけが集まっての披露宴のみで、<br />記念撮影も新婚旅行も無かった。<br /><br />　結婚式後1か月して彼女が上京してきて、<br />研究所に勤める私との新婚生活が始まった。<br /><br />　家は麹町にある母方叔母の離れ家で、<br />私の通勤時間は片道1時間半かかった。<br /><br />　この家には10か月住んだが、東京の中心部だけあって<br />配給の食料品は質的には最高級品だと妻は感心していた。<br /><br />　しかし、量的にも種類も不足していて苦しい食生活が続き<br />たまに研究所で配給してくれる少量の食料品が有難く、<br />偶然夜道で拾った大根葉1枚を味噌汁の貴重な実にするという<br />情けない状態だった。<br /><br /><br />▼その4<br />　昭和20年になると、空襲は日ごとに激しくなった。<br />ある日敵機が1機頭上を通り、大きな爆弾を落としたが、<br />それははじめヒュルヒュルという小さな音で、<br />すぐにシューシューの中音になり、やがてゴーゴーの<br />圧する轟音になった。<br /><br />　思わず首を縮め身体も伏せたが音はスーーっと消えたようになくなった。<br />それは幸運にも100メートル先に落ちた不発弾だった。<br /><br />　その後の経験で、焼夷弾の落下音はザーザーと<br />砂を掃くような音であることを知った。<br /><br />　3月10日の東京江東区の大空襲は一晩に10万人の死者が出たほど<br />猛烈で、研究所も急に新潟に移転することになった。<br /><br />　そこで私も3月末福岡に帰ることが許されたが<br />手荷物1個出すにも、毎朝近くの四谷駅まで担いで行って並び<br />3日目にやっと受け付けて貰ったという風で、<br />厳しい制限をかい潜っての旅行は本当に苦しかった。<br /><br />　背中に背負った荷物は日常生活品のみで、持ち帰れずに置いてきた。<br /><br />　衣料品その他の平時なら価値ある荷物は5月の東京山の手の<br />大空襲で全部焼失してしまった。]]></content:encoded>
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    <title>お袋が作ってくれたツリ鞄　　翻車魚</title>
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    <description>お袋が作ってくれたツリ鞄翻車魚2022年8月6日 · ▼まもなく終戦記念日8月15日（７７回）を迎えます。　当時、私は小学校1年生で名古屋空襲の時（熱田区）に住んでおりました。　小学校は ...</description>
    <pubDate>Tue, 09 Aug 2022 07:18:49 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[お袋が作ってくれたツリ鞄<br /><br />翻車魚<br />2022年8月6日<br /> · <br />▼まもなく終戦記念日8月15日（７７回）を迎えます。<br />　当時、私は小学校1年生で名古屋空襲の時（熱田区）に住んでおりました。<br />　小学校は高蔵国民学校の1年生です。警戒警報が発令されると自宅へ帰り・・・<br />解除になると学校へ戻る日々でした。<br />　自宅の住まいは、隣の会社が飛行機の後ろの車輪を製造している工場です。<br />　夜、アメリカのB-29爆撃機の編隊が名古屋上空に飛来、爆弾や焼夷弾を投下、<br />そのため名古屋市内は焼け野になりました。<br />　すべての人たちは、命大事とほんの一握りの手荷物で非難するのが精一杯でした。<br />　夜が明けると遠く一遠方迄、見渡せます…建物が燃え尽きて皆無でした。”唖然”<br />　<br />　終戦日は、犬山（犬山北国民学校・小学校2年生）に住んでおりました。<br />　8月15日にお袋が迎えに来てくれました。兄弟7人家族でそれぞればらばらに、<br />知人・親戚等に預けられておりました。<br />　我が家も、家や家財道具一切燃え尽きました。戦後、親は大変だったです。<br />　終活で整理していたら大変貴重な品物が出てきました。<br />　お袋が帯締めの芯で作ってくれたツリ鞄で、小学校6年生まで愛用しました。<br /><br />▼幼稚園1941年4月～1944年3月東別院のお東幼稚園<br />　小学1年生のランドセルは、牛革で姉のお古で色は茶系統です。<br />　筆箱はセルロイド製で無くボール紙製です。<br />　昭和20年3月19日の名古屋空襲は、午前2時ごろB29爆撃機230機に　　<br />よる大編隊の市街地に対する大規模な攻撃でした。（Webによる）　<br />　戦後は学校の校舎で二部授業。午前の部・午後の部と別れていました。<br />　小学6年生から校舎が完成。部屋の仕切りを外すと「講堂に変身」になりました。<br /><br />▼裏の宅地は、その時代は畑で野菜（サツマイモ・トマト・きゅうり・キナウリ・<br />よく実る糸瓜型「ヘチマ型」の南瓜・ゴマやトウモロコシ等）を栽培していました。<br />　一時期、鶏を２００羽飼育しており、卵を乾物店に収めていた。<br />　家族が多くて大変でしたが、市内（瑞穂区内）に４か所、畑として借りていました。<br />　現在その土地は豪華な建物が立っています。<br />　麦や大豆は、手動式の粉砕機でうどん粉や黄な粉を作りました。<br />　お米の配給は玄米でしたので（異物取り除き）、一升瓶に入れて糠を取り、殆ど雑炊で頂きました。<br />　クジラの肉も、町内の籤引きに当たれば、口に入ります。<br />　お米も、「米穀通帳」がなければ、「お米やさつま芋等も」購入できませんでした。<br />　タンパク源は、天白川の田んぼで「イナゴ」取りに行きました。<br /><br />　現在でもお店でイナゴの佃煮を買ってきます。<br />　ただし、ジジババしか口に入れません。幼年期はひもじい生活環境でした。<br />　戦争はこりごりです。<br />　兄・姉等は、戦時中、工場で学徒奉仕で慣れぬ手つきで、鑢（ヤスリ）を使って物を加工していたそうです。<br /><img src="https://www2.mellow-club.org/densho/uploads/photos/2345.jpg" alt="" />]]></content:encoded>
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    <item>
    <title>「８月６日・原爆の日」に・・・ 　　　こっこ亭 </title>
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    <description>「８月６日・原爆の日」に・・・ 投稿者：こっこ亭 投稿日：2022/08/06(Sat) ７７年前、西方の彼方にきのこ雲とひとつの閃光が走った。焼けただれた皮膚をボロ布のようにぶら下げた人たちが ...</description>
    <pubDate>Sun, 07 Aug 2022 23:27:23 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[「８月６日・原爆の日」に・・・ <br />投稿者：こっこ亭 <br />投稿日：2022/08/06(Sat)<br /> <br />７７年前、西方の彼方にきのこ雲とひとつの閃光が走った。<br />焼けただれた皮膚をボロ布のようにぶら下げた人たちが<br />助けを求め、水を求め、元安川の水面を覆い尽くした。<br /><br />今宵、その水面を平和を祈る「供養の灯篭」が埋め尽くす。<br />「繰り返しません、過ちを・・・」<br />この誓いもむなしく、今も世界のあちこちで繰り返される<br />あまたの「戦争」や「核実験」<br /><br />人類の“愚かさ”“みにくさ”“強欲さ”<br />子や孫に伝えたい『平和の尊さ』<br />それを崩す“おろかな輩”を、決して許すまじ！！<br />『御霊』よ、どうぞ安らかに・・・<br /><br />　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　合掌]]></content:encoded>
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    <title>❝８月１５日❞ に思うこと！ 祈ること！　　　こっこ亭 </title>
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    <description>❝８月１５日❞ に思うこと！ 祈ること！ 投稿者：こっこ亭 投稿日：2022/08/05(Fri) ８月１５日、第二次世界大戦終了（敗戦）の日。今、８２才、戦争をおぼえている最後の世代か・・・・・ ...</description>
    <pubDate>Sun, 07 Aug 2022 23:22:09 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[❝８月１５日❞ に思うこと！ 祈ること！<br /> 投稿者：こっこ亭 <br /> 投稿日：2022/08/05(Fri) <br /><br />８月１５日、第二次世界大戦終了（敗戦）の日。<br />今、８２才、戦争をおぼえている最後の世代か・・・・・<br />世界のあちこちできな臭い今、声を大にして叫ぶ！！<br />「戦争」絶対反対！！<br />地球上から「核兵器」のすべてを廃絶せよ！！<br />戦後７７年、８月１５日に思うこと！ 祈ること！！<br /><br />灯火管制を経験した世代<br />空襲警報！」のサイレンの音や、叫ぶ声におびえた世代<br />防空壕に入った世代<br />防空頭巾をかぶった世代<br />夜空を走る敵機を探すサーチライトの光を見上げた世代<br />炎を上げて木の葉のように大阪の空を舞い落ちる戦闘機を、<br />京都・伏見の地から見上げていた世代<br />トラックに棒立ち、満載状態で運ばれてきた、焼けただれた<br />連合軍の兵士たちを目撃した世代<br />戦中戦後、いつも飢えていた世代<br />どれも、経験したくない、見たくない風景！！<br /><br />「全世界恒久平和」を強く願う！！<br />戦争絶対反対！！！]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>母の記憶から 　　　E Pili Mai</title>
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    <description>母の記憶から 投稿者：E Pili Mai 投稿日：2022/07/31(Sun) ▼今は亡き、昭和５年生まれの母に、20年以上も前に聞いたおぼろげな記憶です。　私の祖父は、徳島県鳴門市で塩業に携わる仕事をして ...</description>
    <pubDate>Sun, 07 Aug 2022 23:15:30 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[母の記憶から <br /><br />投稿者：E Pili Mai <br />投稿日：2022/07/31(Sun) <br /><br />▼今は亡き、昭和５年生まれの母に、20年以上も前に聞いたおぼろげな記憶です。<br />　私の祖父は、徳島県鳴門市で塩業に携わる仕事をしていました。<br />　７人兄弟の母は、終戦前に長兄（当時24歳）を出征先で亡くしています。<br />　出征前の長兄に、セルロイドの筆箱を買ってもらった唯一の思い出を、<br />いつも嬉しそうに話していた顔が目に浮かびます。<br /><br />▼終戦直後の混乱期の15歳の母は、直ぐ上の姉と共に、塩の入った風呂敷包みを担ぎ、<br />少し離れた村の農家へ、米やその他の食べ物と交換する為に、汽車に乗って出かけたそうです。<br />　何軒も廻って、やっと交換してもらったわずかな食料を手に入れたものの、<br />帰りの汽車の中で、憲兵の見廻りに合ったそうです。<br />見つかれば取上げられると思った時に、大きなマントを着た見知らぬお爺さんが、<br />すっぽり隠してくれて、事なきを得たそうでした。<br /><br />2022/07/31]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>義父母の結婚写真　　　メーラ</title>
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    <description>▼メーラ2022年8月5日 11:39 · 私は戦中派生まれ（１９４１年）１９３９年に夫の両親が結婚しました。その当時ならではの”結婚式”の写真がありますので、アップしました。義父は、陸軍 ...</description>
    <pubDate>Sat, 06 Aug 2022 18:59:13 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[▼メーラ<br />2022年8月5日 11:39  · <br /><br />私は戦中派生まれ（１９４１年）<br />１９３９年に夫の両親が結婚しました。<br />その当時ならではの”結婚式”の写真がありますので、アップしました。<br />義父は、陸軍近衛師団主計中佐。　<br />沖縄にアメリカ軍が上陸後の、昭和２０年４月１０日戦死４０才。<br />沖縄の護国神社に、ザラ紙に書かれた戦死記録が保管されていました。<br />勿論、遺骨は無く”沖縄の土”でした。<br />義父は義母に「何時、何事が起こるか分からない」という心構えでいるように<br />言われていたそうです。<br /><br /><a href="https://www2.mellow-club.org/densho/uploads/photos/2344.jpg" rel="external"><img src="https://www2.mellow-club.org/densho/uploads/thumbs/2344.jpg" align="left" alt="" /></a>]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>「義父の憲兵任命書」      紫雲</title>
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    <description>▼1943年生まれの私は戦中派ですが、戦争の事は全然知りません。自分の事でないので此処に投稿して良いのかわかりませんが、何だか聞いてほしくなりました。▼夫が逝き後整理していた ...</description>
    <pubDate>Wed, 03 Aug 2022 22:37:20 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[▼1943年生まれの私は戦中派ですが、戦争の事は全然知りません。<br />自分の事でないので此処に投稿して良いのかわかりませんが、<br />何だか聞いてほしくなりました。<br />▼夫が逝き後整理していたら、引き出しの奥深くから古い紙が出てきました。<br />▼夫の父親の憲兵任命書です。母親が保管していたのです。<br />父親は夫がまだ胎内にいた時に他界しました。<br />▼見たことも無い父親の形見として大事に絹の風呂敷に包まれていました。<br />親子の情は深いものですね～<br />▼私も処分する事に躊躇い、大事に保管しています。<br />（添付画像の名前は伏せてあります）<br /><br />2022年7月31日　　紫雲<br /><br /><a href="https://www2.mellow-club.org/densho/uploads/photos/2343.jpg" rel="external"><img src="https://www2.mellow-club.org/densho/uploads/thumbs/2343.jpg" align="left" alt="" /></a>]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>満州からの引き揚げの記録　　京子</title>
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    <description>▼私は戦中　満州で生まれました。▼父が軍人で満州へ越し、戦争中　日本へ一時帰省し、母と結婚式を上げて、直ぐ満州へ引っ越し、やがて姉が生まれ、私が生まれました。▼終戦後父が ...</description>
    <pubDate>Sun, 31 Jul 2022 20:02:48 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[▼私は戦中　満州で生まれました。<br />▼父が軍人で満州へ越し、戦争中　日本へ一時帰省し、母と結婚式を上げて、直ぐ満<br />州へ引っ越し、やがて姉が生まれ、私が生まれました。<br />▼終戦後父が、母に何も持たせず、子供二人だけを日本へ無事に連れて帰る様、直ぐ<br />港か ら帰還船乗せました。<br />▼日本への帰還船の中で、同年代の赤ん坊は、環境が劣悪で次々亡くなった様でした<br />が、私は骨と皮になりながらも、何とか母の背中で無事帰国できました。<br />▼4歳の姉は、足も強く、良く歩いた様です。全て両親から直接話を聞く事は無く、<br />後日知ったことです。余りひどい話を思いだしたくなかったのでしょうね。<br />▼帰還の話は、日本に居た叔父・叔母から間接的に聞いた話です。両親は亡くなり、<br />直接聞くべきだったのか、聞かなくて良かったのか？今でも答えは解りません。<br /><br />2022年7月30日　京子]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>戦争の思い出話　　モツンク</title>
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    <description>メロウ倶楽部伝承館寄稿原稿　　2022年7月26日(火)　９０歳目前の、平凡な年寄りの繰り言です。　お聞き苦しければ（お見苦しければ）ごめん下さい。　昔、こんな生き方をしたという年寄 ...</description>
    <pubDate>Sun, 31 Jul 2022 19:41:13 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[メロウ倶楽部伝承館寄稿原稿　　2022年7月26日(火)<br /><br />　９０歳目前の、平凡な年寄りの繰り言です。<br />　お聞き苦しければ（お見苦しければ）ごめん下さい。<br />　昔、こんな生き方をしたという年寄りの、戦争の思い出話です。<br /><br />その１<br />　私が生まれたのは昭和１０年、血気盛んな青年将校が要人を襲撃する２・２６事件が起きた年でした。<br />父と母が、神戸の紳士服店で結ばれ、母が身ごもって実家に帰り私が生まれました。<br />それから三年後、昭和１３年の１２月に、母は結核で一生を終えました。盧溝橋事件から日中戦争が起きた年です。<br />当時の結核は不治の病で、有効な治療法がなかったのです。<br />母は、高知の片田舎に住む実母の家で隔離され、治療に努めましたが、懸命の甲斐なく産み落とした乳飲み子を、<br />父の実家がある愛媛の母に預けて他界しました。<br />享年２６歳でした。私の名は父と母の名をとって、福光と名づけられました。<br /><br />その２<br />　私、福光にとっては父方の祖母タカが育ての親になります。<br />タカは乳飲み子の私を、当時の人工ミルクとおもゆで大事に育てたそうです。幸い大きな病もなく、そこで小学校に<br />上がりました。<br />　２年生になったころ、再婚していた父が私を引き取って、神戸に移り住むことになりました。<br />神戸の家には継母とその子二人（私の弟）がいました。<br />１９４１年（昭和１６年）に日本が真珠湾を攻撃して第二次世界大戦、日本では大東亜戦争が<br />始まっていました。<br />　小学２年で神戸の小学校に転校したのですが、ほどなく父が召集されてのち、戦況が厳しくなり、<br />たび重なる空襲に、私たちはまた四国に疎開したのです。<br />　神戸の生活は食べ物に困る日々が続き、身の安全を求めて、継母と弟は実家のある町へ帰り、<br />私はまた祖父母の家に預けられました。<br />　私は小学校３年から中学校卒業の１９５２年（昭和２７年）まで、祖父母と生活を共にしたのです。<br />この時期が、私が戦争の恐ろしさや悲惨さを、体の隅々まで体験した時期になります。<br />　戦争は１９４５年（昭和２９年）８月６日に、広島と長崎に落とされた原子爆弾２発と、<br />沖縄の占領で幕を引きました。<br />　ポツダム宣言を受け入れた、敗戦国日本の姿は、まさにむごたらしいの一言でした。<br /><br />その３<br />　私は１年から２年生のころ、小学校で軍事訓練を受けた時のことが忘れられません。<br />当時の先生はそれは厳しく、歩調訓練で何かあると耳を引っ張り、尻をたたいて怒鳴りつけます。<br />「そんなことで銃後の守りになるか。気を付け。顎を引け」と。<br />毎日、ピリピリしながら登校していました。しかし戦況は日に日に厳しくなり、<br />１９４５年（昭和２９年７月２６日）深夜に飛来したＢ２９が、約２時間にわたって大量の焼夷弾をばらまき、<br />私たちの街はほとんどが焼け野原になりました。<br />　私が１０歳で小学３年生の時です。<br />　空襲の日、私は防空頭巾をかぶり祖母に手を引かれて、舞いかかる火の粉を払いながら必死で逃げました。<br />　家からほぼ２キロのあたりに街の中心を流れる河があり、そこに架かった大きな橋の下に向かって走りました。<br />橋の下は避難した人で溢れていました。怯えながらそこから見た街の炎と爆音の中に、何人かの人が逃げ惑う様子が<br />目に浮かびます。<br /><br />　何時間いたでしょう。燃え盛っていた街の火が小さくなり、静かになったのは明け方でした。<br />　おずおずと動き始めた人々と一緒に、街に戻りながら見た光景は真っ黒で、ところどころに焼け焦げた何人もの遺体が<br />ありました。<br />　道をふさぐ焼けぼっくいを避けながら、ようやく我が家に辿り着いたとき、まだあちこちで煙が上がっています。<br />　祖父がそこに座り込んでいました。必死で家を守ろうとしていたようで、鼻は真っ黒です。<br />よく生き延びたと思いました。<br /><br />　祖父の顔を見て急に空腹を覚えた私たちは、焼け跡のあちこちをひっくり返して、残った食べ物を探しました。<br />そして見つけたのは、半分焼け焦げた米櫃と味噌壺でした。３人は、焼き米を焼き味噌で、ものも言わず食べました。<br />少しだけ焼夷弾の油の匂いがしました。ゆがんだ薬缶も見つけて、井戸水を汲みお湯も沸かしました。<br /><br />その４<br />　そのころには、近所の人たちも少しずつ帰ってきました。みんな顔を合わせて涙を流し、無事を喜んでいました。<br />しかし、いつまでたっても帰ってこないご近所さんもいました。<br />　跡形もない家の焼け跡の残骸を、祖父母は懸命に引きはがしながら、何か使えるものはないかと探し始めました。<br />その時見つけた金槌や鋸、ヤットコは今も手元にあります。<br />高熱で色が変わった道具を、祖父が何とか使えるようにして、焼け焦げたトタン板や柱でその夜のバラック小屋を<br />つくりました。<br />　不発の焼夷弾があって、それに触れて傷ついた人もいたとあとで聞きました。<br />戦争はまだ続いていたので、いつまた空襲があるか分かりませんが、ここまで燃やしきったら直ぐには来ないだろう<br />という思いだったようです。<br />　街の真ん中にそびえるお城山まで、見事に焼けて平地になり、ところどころにコンクリートの建物が残っていますが<br />しっかりと見通せました。<br />その夜は着の身着のままで、身を寄せ合ってバラックの下で眠ったのでした。<br /><br />その５<br />　その日から終戦の玉音放送があった日まで、どう生きていけばいいか、祖父母は住み家を探したようです<br />幸い近所に居た人の実家が５キロほど離れた郊外にあり、農家を営んでいたので、そこの納屋を借り、<br />座を上げて移り住むことができました。　<br />むしろ敷の部屋の真ん中に切った囲炉裏で焚く火が、唯一の灯りです。<br />　毎晩、それを囲んで薪を燃やしながらの生活でした。食べ物は農家に分けてもらいました。<br />時々、祖父が街に様子を見に出て、配給の品をもらって帰ります。ある日、帰りが遅いので心配していたら、<br />夜遅くに「アメリカの機銃掃射にやられた」といいながら帰って来ました。<br />　聞くと歩いていたらバリバリと音がして後ろから前に土煙が上がったそうです。<br />幸い直撃は逃れたのですが、何かが右の脇腹に当たって負傷したとのこと、治療を受けて落ち着いたので帰れたと話しました。<br />　１９４５年（昭和２０年）８月１５日の終戦まであとわずかの日のことです。<br />アメリカは日本人を皆殺しにしたいのかと思いました。<br />　私は市内の小学校から、田舎の小学校に転校して通っていました。<br />　農家の、逞しい子供たちが河や野原で遊び、その中に誘ってくれます。<br />　木イチゴや山葡萄、いちじくなどがおやつでした。<br /><br />その６<br />　待ちに待った戦争が終わり、戦地で生き残った人たちがぼつぼつ帰り始めました。<br />私の父や叔父、近所にいた小父さんも引き揚げてきて、狭い私たちの納屋小屋に住み、<br />暫くしてそれぞれに次の住み家を探して出ていきました。<br />　祖父も、いつまでもここに居ることは出来ないと、街中の焼け残った家を探し、継母の姉が住んでいた家を借りて、<br />そこに移ったのは終戦の日から３ケ月後でした。<br />その家は、私たちが避難した河の橋の上流の、堤防に建っていました。空襲を免れた古い貸家でしたが、<br />そこが小学校４年から中学校卒業までの故郷です。<br />田舎の学校から転校した、街の学校は空襲であちこちが壊れていました。子供たちはその校舎を手分けして片付けながら、<br />勉強します。<br />　堤防の松林の下の道を、新しい小学校に近所の悪童たちと並んで通いました。空襲の心配がないことが、<br />子供心に嬉しいことでした。<br />遊び道具は、あるものを組み合わせて自分で作ります。<br />古い自転車の車輪を分解して作る鉄炮ヤスもその一つです。子兎やヒヨコを育てて卵や肉にしましたし、<br />河では竹一本で魚を獲るのが遊びでした。小遣い稼ぎに磁石をつけた紐を引っ張って道を歩いて鉄くずを集め、<br />売りに行ったりもしました。<br /><br /><br />その７<br />　終戦からほぼ一年は、食べ物を手に入れるのに困りました。祖父母と農家にお米や野菜を買出しに、何度も行きました。<br />その頃のいやな思い出は、電車での帰りに警察の臨検に遭い、せっかく買った食べ物のリュックを窓から投げ捨てたことです。<br />食料統制で闇の買出しは禁止されていたからです。警察に捕まったらいけないと、悔しいけど捨てました。<br />たった一度だけのことですが、今も忘れられません。また祖母は、醤油や塩がなくなると遠くの海に出かけて、<br />一升瓶に海の水を汲んで帰りました。それが私たちの食事を支えていたのです。<br /><br /><br />　野生の蕗や蓬や芋の茎、河でとれる魚はたびたび食卓に上りました。お米を補う団子汁（すいとん）や南瓜、<br />芋も厭というほど食べました。ことほどさように、食べ繋ぐことに苦労する戦後でした。<br /><br />その８<br />　戦後行われた学制改革は、国民学校から六三三制の小、中、高校に変わり、私たちも新しく出来た中学校に進むことになります。<br />　その学校は、元あった日本軍の兵舎が校舎でした。お城を見上げるお堀端の中にあります。<br /><br />　家からの距離は６キロあまり、ぼつぼつと復興住宅が立ち並ぶ中を、毎日歩いて登下校しました。<br />　復員してきた先生方は、軍事教育から一転して民主主義教育を進めねばなりません。<br />　でも英語や社会の先生は、終戦後の解放感に満ちていました。生徒たちも何かうきうきして、中には先生をやりこめる勢いのある者がいました。<br />　それが許される時代になったのです。<br />　社会の先生は、「黙るな、意見を云え。自分を主張しなさい」と討論を勧め、英語の先生は<br />「正しい発音を。唇と舌の使い方を覚えろ。外人に通じる英語を学べ」と指導します。<br />　思えば、戦時中の学びから、戦後の学びに１８０度の転換期に生きた世代だった訳です。<br />　ですが子供は柔軟です。<br />　新しい勉強法に直ぐに馴染みました。むしろその違いを体験したからこそ、その後の様々な難関を乗り越えられたと思います。<br />　学校の機材や用具不足を補うため、校内にあった楠の実を集めて売り、資金の足しにしたこともあります。<br />　クスの実はナフタリンの原料でした。<br />　また石炭殻を敷いた軍事訓練場跡を割り振って、生徒たちが畑を作り、ニンジンやサツマイモを育てたりもしました。<br />旧兵舎は終戦で進駐してきた米軍の住んだ跡で、壁は原色の訳の分からない模様が入っていましたがいつか消されました。<br />　多情多感な中学生のころ、１９４８年（昭和２４年）から１０５２年（昭和２７年）の思い出です。<br /><br />その９・終わりに<br />　終戦から７７年が過ぎました。「神国日本、米英鬼畜、撃ちてし止まむ」そんな言葉に引きずられて世界を相手に戦った小さな国に、<br />平和が訪れ二度と戦争はしないと宣言して、経済大国に成長したことは皆さんもご承知の通りです。<br />　今、戦争の恐ろしさを身をもって体験した私たちは、平和がこのままいつまでも続くよう願っていますが、<br />最近の世界の様子を見ると恐ろしさを禁じえません。<br />資源を持たない小さな国でなく、資源も財力もある大きな国が、その権益を更に広げようとして、<br />大きな武力を背景に身勝手な理屈をつけて侵略を始めています。<br />　彼らは侵略でなく「自国民を守るための正当な特殊軍事作戦だ」などと云います。<br />かつての私たちのように、国の異常な考えや、金縛りに遭い間違った選択を強いられている姿を見るとき、<br />これからの世代のことが心配でなりません。<br />いったん事が起きれば、今度は地球の環境そのものが取り返しのつかないことになるからです。<br />昔と違い、多くの情報がデジタルで即見える時代です。手にした情報を正しく読み解き、<br />　２度と戦争に巻き込まれないよう、心から願う次第です。<br /><br />　　　　　　　　　　　<br />　２０２２年７月２７日　　　メロウ倶楽部　モツンク記<br />]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>「亡き父母の終戦前後」　オリーブ</title>
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    <description>「亡き父母の終戦前後」　亡き父母から聞いた話です。　　父が若い頃、早稲田大学の理工学部の助教授で、父母は大学の官舎がある現在の高田馬場に住んでいました。　　太平洋戦争のさ ...</description>
    <pubDate>Sun, 31 Jul 2022 17:53:54 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[「亡き父母の終戦前後」<br /><br />　亡き父母から聞いた話です。<br />　<br />　父が若い頃、早稲田大学の理工学部の助教授で、父母は大学の官舎がある現在の高田馬場に住んでいました。<br />　<br />　太平洋戦争のさなか、父は鉄砲の弾丸の材料となる真鍮を作る技術師として兵役免除になりましたが、中国に派遣されました。<br />　<br />　その間、母は姉を身ごもっていて、B29に空襲される度に防空壕に入っていました。<br />　<br />　その度に高田馬場ですから軍馬がいて、驚く馬のいななきが聴こえたそうです。<br />　<br />　空襲もだんだんひどくなり心細くなったのでしょう。<br /><br />　思い切って官舎の荷物を片付け母の郷里である山口県に疎開しました。<br />　<br />　東京を発つ時、当時は汽車に乗る時、皆我も我もと窓から乗りこんでいたそうです。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　<br /><br />　ところが静岡県の大井川鉄橋が崩落してしまい、東京に戻ることもできず、遠回りをして身重の体で、やっと山口の母の実家まで<br /><br />　帰り着いた苦労話をよく聞かされました。<br />　<br />　その当時、母の実家は大地主で、銀シャリもふんだんに食べられて安心してお産もでき、終戦直後の昭和20年8月16日に姉が生まれ<br /><br />ました。<br />　<br />　よく「胎教がよかったせいか気性が荒くなった」と母が言っていました。<br />　<br />　一方父はと言えば、中国で終戦を迎えホッとしたせいか、現地の大丸百貨店の中をウロウロしていたところ、中国人のおばさんに<br /><br />「早く二階に上がらないと殺されるよ。早く、早く」と中国語で言われ、中国語が解った父は逃げて命拾いをしたと言います。もし<br /><br />父が亡くなっていたら今の私は存在していなかったことでしょう。<br /><br /><br />　　2022/07/27　　　オリーブ<br />]]></content:encoded>
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    <item>
    <title>１９８０年「ある日の雑記帳から」  　こっこ亭</title>
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    <description>子どもたちの幼少期、三重県鳥羽市在住時に在籍していた「鳥羽こども劇場」（今は無い）の１９８０．１２.１に発行された文集 『はまなでしこ』 第２号に「お母さんから子供への手紙」 ...</description>
    <pubDate>Mon, 25 Jul 2022 07:32:31 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[子どもたちの幼少期、三重県鳥羽市在住時に在籍していた「鳥羽こども劇場」（今は無い）の１９８０．１２.１に発行された文集 『はまなでしこ』 第２号に「お母さんから子供への手紙」と題して親たちが書き記したものの中、私が投稿していた“作文”を、世界のあちこちが何やらきな臭い今、ここにアップしておこうと思う。<br /><br />「ある日の雑記帳から」　　<br /><br />　夕焼けの、オレンジ色の空を見ると、思い出すひとつの空があります。<br />それは、幼い心に焼きついた京・伏見区の生家の前から見える大阪の街をこがす戦火が染めぬいた、焼けただれた空の色。<br /><br />　あの空の下で、何人の人が殺されて行ったのでしょう。<br />今も、母の作ってくれた頭巾の色や柄を覚えています。あのような物を再び被りたくも、わが子にかぶせたくもありません。<br /><br />　師団街道を南から北へむかう国防色のトラックには、いつも髪は焼けちぢれ、顔が赤くずるむけたいやな言葉ですが、敵国の兵隊たちが棒立ちのまま、文字通り棒か杭のように満載されていました。<br /><br />　撃墜された戦闘機からひっぱり出された、わずかながらも命の残された人たちだったのでしょう。そのトラックを見て、我ら多くの者が拍手をしてはやしたてたものでした。<br />きっとその頃、アメリカやイギリスなどでは日本兵も同じ目にあっていたでしょうに。<br /><br /><br />「空襲警報」の声であかりを消した家の中。防空ごうの暗やみの色、そして、空を走るサーチライトの光の色、これもいまだに忘れることのないイヤな色です。<br /><br />　原爆投下の標的に京都も候補に上がっていたと知ったとき、三十四年前にすんでしまった戦争に、背筋を冷たいものが走りました。　<br /><br />　今日も世界のあちこちで、おろかな行為がくり返されています。富めるとも、貧しくとも、今、平和に暮らしていることのありがたさ。その時、もし、自分がこの世から抹殺されていたとしたら、今袖にすがるいとしい二人の子供はこの世に『生』をうけていなかったのでしょうから・・・　<br /><br />　　　<br />投稿日：2022/02/02(Wed) 12:04 No.6]]></content:encoded>
  </item>
    <item>
    <title>電気通信大学藤沢分校物語（１０）７</title>
    <link>https://www2.mellow-club.org/densho/modules/d3forum/index.php?post_id=5779</link>
    <guid>https://www2.mellow-club.org/densho/modules/d3forum/index.php?post_id=5779</guid>
    <description>　敷地の確保　藤沢市は敷地確保のため①県有地の払下げ、②私有地買収の折衝を進めた。さらに、1943年（昭和18）3月、円滑に土地買収を進めようと「市参事会に買収を委任する」として ...</description>
    <pubDate>Thu, 29 Dec 2016 16:31:43 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史I（戦前・戦中・戦後直後）</category>
    <content:encoded><![CDATA[　敷地の確保<br /><br />　藤沢市は敷地確保のため①県有地の払下げ、②私有地買収の折衝を進めた。さらに、1943年（昭和18）3月、円滑に土地買収を進めようと「市参事会に買収を委任する」として金子市長は市会に議案上程、買収を加速した。（注1105）<br /><br />（1）県有地の払下げ<br /><br />　　藤沢市は、1942年（昭和17）10月に県知事宛に協議方の申込みをした。（注1106）<br /><br />　　藤土発第1485号　　昭和17年10年13日<br />　　　藤沢市長<br />　　　神奈川県知事宛<br />　　　県有地払下方協議ノ件<br />　　　今般本市ニ於イテ別添写ノ通り逓信省ノ依頼二依り官立無線電信講習所ヲ建設スルコトト相成候。就テハ敷地トシテ、左記県有地ノ払下ヲ受ケタク此段及御協議候也<br /><br /><br />　記<br /><br />　一、払下ヲ受クベキ県有地ノ所在並地積<br />　　　藤沢市鵠沼上鰯5,218番ノ66号地ノ内<br />　　　砂防敷地約弐千参百六拾四坪 別紙図面イ号<br />　　　藤沢市鶴沼上鰯5,218番ノ66号地ノ内<br />　　　砂防敷地約参千五拾弐坪 別紙図面口号<br />　　　藤沢市辻堂浜見山7,238番ノ2号地ノ内<br />　　　官有砂地約千参百四拾七坪 別紙図面ハ号<br />　　　藤沢市辻堂浜見山7,238番ノ2号地ノ内<br />　　　官有砂地約四千百弐拾八坪　別紙図面二号<br />　　　合計・約10,891坪（＊印、筆者加筆）<br /><br />　一、払下代金<br />　　　壱坪当り金八円以内<br /><br />　一、払下ヲ必要トスル理由<br />　　　今般、本市二於テ逓信省ヨリノ依頼二依り同省所管官立無線電信講習所ヲ建設スルコトト相成之ガ敷地約四万坪ノ広大ナル土地ヲ必要トスルヲ以テ其ノ地域内二在ル県有地ヲ該講習所敷地トシテ払下ヲ受ケントスルモノナルニ因ル<br /><br />　　　神奈川県は土地払下を承認するとともに一方湘南遊歩道の将来計画に対する留意点を藤沢市に伝えた。<br /><br />　　　18庶第242号　　　　昭和18年4月1日<br />　　　神奈川県官房長<br />　　　藤沢市長殿<br />　　　縣有土地売却二間スル件<br />　　　今般貴市二對シ藤沢市鵠沼字上鰯5,218番ノ66ノ内及辻堂字浜見山7,238番ノ2の内県有土地一高一千四百三十九坪ヲ売却相成候処右ハ其ノ施設ノ性質二鑑ミ特二売却相成タルモノニ有之候條将来風致、砂防上支障ヲ来サザル様格段ノ御留意相成度依命及通牒候<br />　　　（注1107）<br /><br />　　　県有地の確保は最終的に11，439坪で、藤沢市の希望する通り土地が払下げられた。<br /><br />（2）私有地の確保<br />　　　私有地の買収にあたり、昭和17年7月、藤沢市は「官立無線電信講習所敷地買収に関わる協議会」（以下買収協議会という）を設け、県有地と並行して買収を進めていた。<br /><br />　①　第1回買収協議会‥昭和17年7月24日<br />　　　（注1108）<br />　　　開催場所‥市役所<br />　　　出席者‥合計28名、市側市長以下3名、議員9名、地元委員及び土地関係者16名。<br /><br />　　市側の説明<br />　　＊買収対象は14名、19,797.28坪である。<br />　　＊個人的に種々なる事情があっても買収の変更は困難、先祖伝来の土地に対し同情する。<br />　　＊食糧増産に逆行するが止むを得ない。<br />　　＊国家のことだから嫌やはない。市役所の立場で努力する。承諾してもらいたい。<br />　　＊私有地に関する資料は省略します。<br />　　まとめ<br />　　＊替地、価格など出来得る限り考慮するが、要求通りにはいかない。<br />　　＊委員会制度で今後は進めたい<br /><br />　②　第2回買収協議会‥昭和17年8月14日<br />　　　（注1109）<br />　　　開催場所‥市役所<br />　　　出席者‥市側市長以下3名、議員9名、地元委員及び土地関係者9名計21名<br />　　市側の説明<br />　　＊逓信省でも位置の選定をした関係上（位置の変更は）お諦め下さるようにして貰いたい。<br />　　＊替地関係に原因するようであるが之は別途にして価格の点に付き協議したい。<br />　　参加者意見<br />　　＊最近の実例に釣り合った価格に願いたい、此の点は特に市当局に御尽力をお願いしたい。<br />　　まとめ<br />　　＊価格は議員を合同して評価する。<br />　　＊大部分の意見は替地にあるようだから予定地を選定した上に於いて行う。<br />　　＊机上でなく実地について評価したい。<br /><br />　③　第3回買収協議会‥昭和17年8月19日<br />　　（注1110）<br />　　　開催場所‥日の出橋と太平橋の中間<br />　　　出席者‥合計40名、市側市長以下3名、議員9名、地元委員及び土地関係者9名。<br />　　　現地評価後、その後の折衝を経て、土地買収が完了した。<br /><br />（3）敷地<br />　　　敷地買収は約参萬壱千坪にのぼった。<br />　　　県有地　11,439.23<br />　　　私有地　19,797.28<br />　　　合　計　31,236.51坪<br /><br />（4）敷地図<br />　　敷地確保のために計画された官立無線電信講習所敷地図（昭和17年）と13年を経過した藤沢市都市計画基本図（昭和30年）を示す。<br />　　尚、同基本図の黒枠は、比較し易いやすいように筆者が推測して追記したものである。<br /><br />　　詳細は次号以降で述べるが、1955年（昭30）の藤沢市都市計画基本図であるが、1956年（昭聖には旧電気通信大学藤沢分校の木造校舎を改修し、校地7,270坪で藤沢市立湘洋中学校の開校が決定、職員11人をもって開校するのである。（注1113）<br /><br />　　また1960年（昭至11月、全学調布移転統合に伴い、旧学生寮及び食堂（藤沢市鵠沼上鰯5,200）延1,6502㎡が用途廃止され大蔵省に引き継がれた。（注1114）<br />　　　　　　　　　　　　　　　（以下次号）<br /><br />　注1101‥図説ふじさわの歴史（1991）<br />　注1102‥目黒無線会同窓食詰第8号<br />　注1103‥ふるさとの思い出写真集   明治・大正・昭和　藤沢（S54）<br />　注1104‥ふるさと藤沢（2010）<br />　注1105‥昭和18年議案第三十号　市参事会委任事項の件<br />　注1106‥昭和17年官立無線電信講習所関係  書類綴りの内「県有地払下方協議ノ件」<br />　注1107‥十八庶第二四二号「県有土地売却に関する件」<br />　注1108‥官立無線講習所敷地買収に関する協議会録（昭和17年7月24日）<br />　注1109‥同右（昭和17年8月14日）<br />　注1110‥同右（昭和17年8月19日）<br />　注1111‥昭和17年官立無線電信講習所関係  書類綴りの内「官立無線電信講習所敷地図」<br />　注1112‥藤沢市役所都市計画基本図縮小図<br />　注1113‥ウイキペディア「藤沢市立湘洋中学校」<br />　注1114‥電気通信大学六十年史<br /><br /><br /><a href="http://www2.mellow-club.org/densho/uploads/photos/2332.jpg" rel="external"><img src="http://www2.mellow-club.org/densho/uploads/thumbs/2332.jpg" align="left" alt="" /></a><a href="http://www2.mellow-club.org/densho/uploads/photos/2333.jpg" rel="external"><img src="http://ww2w.mellow-club.org/densho/uploads/thumbs/2333.jpg" align="left" alt="" /></a><br /><br />]]></content:encoded>
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