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  <title>メロウ伝承館　サイト - フォーラム - メロウ伝承館（体験・記録のデータベース） - [ 実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期） ]</title>
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  <lastBuildDate>Thu, 14 May 2026 21:16:56 +0900</lastBuildDate>
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    <title>昭和３０年代初めの通学路の商店（その３）　旭岳</title>
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    <description>昭和３０年代初めの通学路の商店（その３）布団屋さん　▼自宅の隣が布団屋さんで、「綿打ち直し」の看板がありました。　打ち直しの作業が始まると、バタバタバタと言う様な大きな機 ...</description>
    <pubDate>Sun, 10 Mar 2024 22:54:35 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[昭和３０年代初めの通学路の商店（その３）<br /><br />布団屋さん<br /><br />　▼自宅の隣が布団屋さんで、「綿打ち直し」の看板がありました。<br />　打ち直しの作業が始まると、バタバタバタと言う様な大きな機械音が<br />　聞こえて来るのでわかりました。<br /><br />板金屋さん<br />　<br />　▼薪ストーブや煙突を作って販売していました、貯炭式のストーブも扱っていた<br />　　と思います。<br />　　冬が近くなると注文した石炭が自宅に配達され、それを物置に運び冬に備えました。<br /><br />百貨店<br />　<br />　▼村の繁華街の中心の交差点に「百貨店」がありました。<br />　　駄菓子から衣料品まで扱っていた村一番の大きな店でした。]]></content:encoded>
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    <title>昭和３０年代初めの通学路の商店（その２）　旭岳</title>
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    <description>昭和３０年代初めの通学路の商店（その２）「蹄鉄屋」さん▼当時の農家にはほぼ一家に一頭、農耕用の馬が飼われていました。　鍛冶屋さんの隣には「蹄鉄屋」さんがあり、長方形の４隅 ...</description>
    <pubDate>Sun, 10 Mar 2024 22:49:56 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[昭和３０年代初めの通学路の商店（その２）<br /><br />「蹄鉄屋」さん<br /><br />▼当時の農家にはほぼ一家に一頭、農耕用の馬が飼われていました。<br />　鍛冶屋さんの隣には「蹄鉄屋」さんがあり、長方形の４隅に柱が立てられていました。<br />　馬がその中に入れられて、蹄鉄を取り付る足を「ひずめ」の処理をし易い様に柱に縛って<br />　固定します。<br />　丸い鎌の様な物で「ひずめ」を整えるのですが、私には大きな爪を切っている様に<br />　見えました。<br /><br />▼その後、蹄鉄を金属の釘みたいな物で「ひずめ」に打って固定していました。<br />　子供心に馬は痛くないのだろうかと思っていました。<br />　又、作業の時には爪が焼ける様な匂いがしたのを覚えています。<br /><br />「桶屋」さん<br /><br />▼「桶屋」さんには同級生がいました。<br />　当然プラスチック等は無い時代、木製の桶や樽を手作業で作っていました。<br />　今思うと、釘を使用せずに厚い板から丸みをつけた部材を何枚も作って組み合わせて<br />　丸くし、底と合わせて周囲を竹の箍（たが）で押さえて中味が漏れない様に作成して<br />　いたのですから、大変な技術だと思います。<br />　風呂桶の様な大きなものは金属の箍（たが）だった様に思います。]]></content:encoded>
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    <item>
    <title>昭和３０年代初めの通学路の商店（その１）　旭岳</title>
    <link>https://www2.mellow-club.org/densho/modules/d3forum/index.php?post_id=5835</link>
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    <description>昭和３０年代初めの通学路の商店（その１）▼幼い頃は旭川近郊の村に住んでいました。中心地から少し離れた自宅から小学校迄の道には色々な業種の店がありました。▼「ポンプ屋」さん ...</description>
    <pubDate>Sun, 10 Mar 2024 22:42:34 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[昭和３０年代初めの通学路の商店（その１）<br /><br />▼幼い頃は旭川近郊の村に住んでいました。<br />中心地から少し離れた自宅から小学校迄の道には色々な業種の店がありました。<br /><br />▼「ポンプ屋」さんには同級生が居ました。<br />もちろん水道は無いので、鉄管を地中に打ち込んで、地下水を手押しポンプで<br />汲み上げていました。<br /><br />▼時々鉄管を打ち込む作業を見ていましたが、運次第で浅くても綺麗な水、深くても<br />鉄分含む水、中々水脈に当たらない時もありました。<br /><br />▼「豆腐屋」さん<br />鍋等の入れ物を持参して買って自宅へ戻るのですが、当日の出来具合の良し悪しか、<br />運び方が悪いのか自宅へ着くと豆腐が崩れていたりしました。<br /><br />▼「鍛冶屋」さん<br />ふいごで真っ赤になった鉄をトンカチと叩いて鍬や斧を作っていました。<br />火花が飛び散るのが面白く眺めているのが好きでした。]]></content:encoded>
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    <title>紙飛行機を飛ばす台北の老人　　　安房守</title>
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    <description>紙飛行機を飛ばす台北の老人 投稿者：安房守　投稿日：2024/01/16(Tue)▼戦後も大分過ぎた頃のお話、1990年頃だったろうか。台北の公園を散歩していたら紙飛行機を飛ばしている異様な風体の ...</description>
    <pubDate>Sun, 21 Jan 2024 23:29:39 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[紙飛行機を飛ばす台北の老人 <br />投稿者：安房守　投稿日：2024/01/16(Tue)<br /><br /><br />▼戦後も大分過ぎた頃のお話、1990年頃だったろうか。<br />台北の公園を散歩していたら紙飛行機を飛ばしている異様な風体の老人がいた。<br /><br />▼台湾にも紙飛行機があるのかと何気なく見ていた。<br />紙飛行機を拝むようにしてツンツンして飛ばす、そして空を見上げる。<br /><br />▼せいぜい7、８mしか飛ばない飛行機に歩み寄って、また同じことを何度も何度も一心不乱に繰り返す。<br />明らかに普通の人ではないな、と眺めていると其の老人が近寄ってきて私に話し掛けて来た。<br /><br />▼目が据わっていて、若干恐怖を感じる。<br />「あなた、日本人だよね、見れば直ぐ分かるよ」<br />ちゃんとした日本語だった。<br /><br />▼自分は何処の生まれでどういうものだ、と語り出したようだった。<br />殆ど覚えていないが、しっかりと記憶に残っている言葉がある。<br /><br />▼「私の先生は日本人の女先生だったんだよ、その先生から紙飛行機の作り方を教わったんだよ、<br />優しい先生だったよ。だけどなぁー、、」<br /><br />▼益々据わって来た目で、私の目を覗き込む。<br />ちょっと恐怖を感じてその場を離れた。<br /><br />▼何か本能的に、切ない話が続くような気もした。<br />今にして思うともっとお話を聞いてあげれば良かったと切に心残りだ。]]></content:encoded>
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    <item>
    <title>笠置シズ子の代演が淡谷のり子　　　　安房守</title>
    <link>https://www2.mellow-club.org/densho/modules/d3forum/index.php?post_id=5833</link>
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    <description>笠置シズ子の代演が淡谷のり子 投稿者：安房守 投稿日：2023/12/04(Mon) ▼今、朝ドラで話題になっているが、、。終戦後初めて上京した折に叔父に連れて行って貰ったのは日劇と後楽園だった ...</description>
    <pubDate>Fri, 22 Dec 2023 00:00:27 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[笠置シズ子の代演が淡谷のり子 <br />投稿者：安房守 投稿日：2023/12/04(Mon)<br /> <br />▼今、朝ドラで話題になっているが、、。<br />終戦後初めて上京した折に叔父に連れて行って貰ったのは日劇と後楽園だった。<br />日劇では、当時人気絶頂だった「笠置シヅ子の公演」とのことで胸をときめかしていた。<br /><br />▼ところが、笠置シズ子が何かの都合で休演になり、代演が淡谷のり子と聞いてガックリしたものだ。<br /><br />▼ヘンテコな厚化粧のおばさんには、興味がなかったのだ。<br />ところが、聴いているうちに、いつの間にかその哀愁を帯びた妖しげな歌声に引き込まれていた。<br />低音かと思うとビブラートの効いた、高音まで音域の広さにも驚いたものだ。<br />この日を境に、淡谷のり子フアンになったのだった。<br /><br />▼後楽園は巨人中日戦だった。<br />憧れの川上や青田、千葉を間近で見てこの上なく興奮したものだ。<br />巨人のピッチャーは、川崎、中日は服部。<br />西沢のホームランで、贔屓の巨人が負けて悔しかったこと！<br /><br />▼今でも覚えている巨人のオーダーは、<br />一番千葉、二番白石、三番青田、四番川上、五番平山、<br />六番呉、七番山川、八番川崎、九番内堀、、でした。<br />]]></content:encoded>
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    <title>不思議な国のアリスと戦後の話 　　　薫子</title>
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    <description>不思議な国のアリスと戦後の話投稿者：薫子 投稿日：2023/11/01(Wed) ▼私の両親は、戦後福岡市の大濠公園近くの商店街で「薬局」を営んでいました。この大濠公園の側には、郵政省の出先で ...</description>
    <pubDate>Thu, 21 Dec 2023 23:45:11 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[不思議な国のアリスと戦後の話<br />投稿者：薫子 投稿日：2023/11/01(Wed) <br /><br /><br />▼私の両親は、戦後福岡市の大濠公園近くの商店街で「薬局」を営んでいました。<br />この大濠公園の側には、郵政省の出先で保険局の茶色の大きな5～６階建ての建物がありました。<br />（現在も保健局としてあります）。<br /><br />▼福岡大空襲で焼け残ったこのビルは、朝鮮戦争時は占領軍に接収されていました。<br />この当時、焼け残っていた大きな民間の家は、ほとんど占領軍関係者の住居となっていました。<br /><br />▼歳の暮れに、その軍から薬局へ電話が入りました。<br />「モシモシ・・・スミマセン　センジツ　お願いしました○○です。」<br />「順番がきましたので、△△に電話の側で待つ様に伝えて頂けませんでしょうか？」<br />事前に話はついていたと見え　兄さんが△△さん宅へ連絡に走りました。<br /><br />▼外人の△△さんは　娘さんを連れて走ってきました。<br />私と同年齢のような娘さんは、冬なのに半袖の真っ白なドレス姿でした。<br />真っ赤なホッペと金髪は、初めて見る生きたフランス人形でした。<br /><br />▼母さんは、急ぎウールの濃いピンク色の私のマフラーを、<br />その可愛い子にかけてあげていました。<br />練炭火鉢しかない、当時の日本の家屋は寒かったのです。<br />なかなか時間になっても国からの電話が入らず、女の子は持参した「本」を見ていました。<br /><br />▼店先では、近所の人も交え、たどたどしい英語の辞書と日本語の応答で、<br />やっと、この方はオランダ人で、明日帰国するのに東京経由の変更を、<br />家族に知らせる電話だという事がわかりました。<br /><br />▼連合軍の一斉の帰国で、連絡用の電話回線が足りなくなったので、<br />一般家庭へ電話線の利用の要請があったのだと　<br />後で母さんから聞きました。　<br />　<br />▼彼女は持参の外国の本を見せてくれました。<br />それは「不思議の国のアリス」でした。<br /><br />▼私は、父さんが商店街の古物商から手に入れてくれていた、<br />少年少女世界文学全集に載っていたので　<br />お互いの本をみながら、言葉が分からないでも挿絵で充分分り合えました。　<br />どうしてか私は唄を歌い始め、又、女の子もお父さんと歌ってくれました。<br /><br />▼オランダからの電話が繋がり、親娘は又走って帰って行きました。<br />さよならと言ってくれました。<br /><br />▼次の日に、ピンク色のマフラーと一緒にクリスマスケーキが届きました。<br />大きなバラの花をたくさん飾った、デコレーションケーキでした。<br />一切れずつ私が隣近所にもって回りました。<br />　<br />▼親子で唄ってくれた歌は、「のばら」だったのです。（かあさんはそう言ったのです。）<br />私が唄った歌は「可愛い魚屋さん」と、「みかんの花咲く丘」　でした。　<br /><br />]]></content:encoded>
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    <title>「銀紙」の話　　　　Kenzaemon</title>
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    <description>「銀紙」の話　　　　Kenzaemon▼第２次大戦終戦前後に、「銀紙」を丸めたりして遊んだ記憶があります。「銀紙」と呼んでいたのは、野原や林の中から拾ってきた銀色のテープで、幅広のテ ...</description>
    <pubDate>Wed, 11 Oct 2023 00:08:58 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[「銀紙」の話　　　　Kenzaemon<br /><br />▼第２次大戦終戦前後に、「銀紙」を丸めたりして遊んだ記憶があります。<br />「銀紙」と呼んでいたのは、野原や林の中から拾ってきた銀色のテープで、<br />幅広のテープと細いテープの２種類がありました。<br /><br />▼上級生からの話なので、真偽のほどは分かりませんが、幅広のテープは、<br />日本軍のテープで、紙で裏打ちされた錫箔でした。<br /><br />▼細いテープは、米軍のテープで、紙の裏打ちなしのアルミ箔でした。<br />日本軍は金属不足のため薄い錫箔に紙を裏打ちし、米軍は十分に金属があるので、<br />紙で裏打ちする必要のない厚い金属テープが作れるとのことでした。<br /><br />▼これらのテープは、「電波探知機(現在のレーダーの前身)」妨害用とのことでした。<br />住んでいたのが、名古屋に向かう米軍空襲機の航空路の下で、近くに飛行場がありましたから、<br />この話は納得できます。なぜ米軍のテープに加えて日本軍のテープがあったのか・・・。<br />おそらく、電波探知機に妨害用テープがどのように作用するかを、確認するために落としたものでしょう。<br /><br />▼こんなところにも、当時、金属不足に悩まされていた日本軍の苦悩が反映されています。<br />米軍は、アルミテープを、惜しげもなく使っていたのです。<br />]]></content:encoded>
  </item>
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    <title>昭和時代の回想             随縁</title>
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    <description>昭和時代の回想 随縁 ▼物心がついたのは、3～4歳くらいで、昭和21年 ～22年ころであった。その頃は、家族で戦時疎開していた時代で、今日の行政区分では福岡県朝倉郡筑前町あたりであっ ...</description>
    <pubDate>Tue, 03 Oct 2023 20:07:39 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[昭和時代の回想           随縁 <br /><br /><br />▼物心がついたのは、3～4歳くらいで、昭和21年 ～22年ころであった。<br />その頃は、家族で戦時疎開していた時代で、今日の行政区分では<br />福岡県朝倉郡筑前町あたりであった。<br />筑前町には母方の先祖の家があり、そこへ身を寄せていた。<br /><br />▼祖父と父親は、戦前は福岡の中心的繁華街の東中州人形町に店舗を構えていた。<br />今日で云う生菓子の製造・直売で、それなりに成功していたらしい。<br />当初は福岡県飯塚市で事業を開始し、それなりに成功し、<br />祖父は星雲の志を抱いて東京進出を考えたらしい。<br /><br />▼ところが東京の地価が想像を超える価格だったので諦め、<br />九州一の繁華街の東中州で開業したという話を、母から聞いたことがある。<br /><br />▼やがて福岡市街も空襲があり、焼け出されて<br />母方の実家があった福岡県朝倉郡筑前町へ一時的に身を寄せていた。<br />そして今日で云う農協のようなところから依頼され、<br />一時的に大きな精米所を任されていた。<br /><br />▼この精米所の前が、子供目線では先が見通せないほど広大な広場で、<br />所々に大きな穴が開いていた。　　<br />これが、かつて東洋一と云われた「陸軍大刀洗飛行場」であった。<br /><br />▼この飛行場から「海軍鹿児島基地」の鹿屋空港へ戦闘機が飛び立ち、<br />やがては南海の空へ特攻機として散っていったという歴史があります。<br /><br />▼私の叔父たちは、士官学校卒の軍人だったため、終戦直前に南方方面に派遣され、<br />あえなく戦没者の仲間入りしている。]]></content:encoded>
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    <title>田舎の「子供用プール」   Kenzaemon</title>
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    <description>田舎の「子供用プール」　Kenzaemon▼戦後の貧しい時代、プールは都会の学校に、数えるほどしかありませんでした。では、田舎の子供たちは、どうしたのでしょう。▼田舎の子供用プールは ...</description>
    <pubDate>Tue, 03 Oct 2023 19:57:05 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[田舎の「子供用プール」　Kenzaemon<br /><br /><br />▼戦後の貧しい時代、プールは都会の学校に、数えるほどしかありませんでした。<br />では、田舎の子供たちは、どうしたのでしょう。<br /><br />▼田舎の子供用プールは灌漑用水でした。<br />山地の灌漑用水は貯め池ですが、平地の灌漑用水は、プールのような形に掘った井戸でした。<br />そこが格好の子供用プールとなっていたのです。<br /><br />▼しかし、ひとつ困ったことがありました。灌漑用水ですから、夏の日照りが続くと、<br />本来の目的のために、水が汲み出されて、水位がだんだん下がっていきます。<br /><br />▼それだけではありません。底から冷たい水が湧き上がり、水温が下がってくるのです。<br />１０分も入っていると、唇が紫色になります。<br /><br />▼そうなると、上級生や同級生から「上がれ」の指示が出て、快復するまで地上で温まります。<br />灌漑用水プールには、監視員などいません。安全を保っているのは、上級生や同級生です。<br /><br />▼小学生しかいないのに事故はなく、上級生が監視員でもあり指導員でもありました。<br />その役目は代々受け継がれていたのです。<br /><br />▼もうひとつ、いまの学校のプールとの大きな違いがあります。<br />足が地に付かないことです。最初は、上級生の指導で、角を斜めに犬かきで泳ぎ切ります。<br />そして、そうこうしているうちに、全長を泳げるようになります。]]></content:encoded>
  </item>
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    <title>京都送り火は五山より多かった？ 　ハッシー</title>
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    <description>▼昔、京都送り火は五山より多かった？ 投稿者：ハッシー 投稿日：2023/08/17(Thu) 11:22 No.24 ▼昨日、2023年8月16日、京都五山送り火が無事行われました。テレビの生中継で五山送り火を観てい ...</description>
    <pubDate>Fri, 25 Aug 2023 17:49:28 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[▼昔、京都送り火は五山より多かった？ <br />投稿者：ハッシー 投稿日：2023/08/17(Thu) 11:22 No.24 <br /><br /><br />▼昨日、2023年8月16日、京都五山送り火が無事行われました。<br />テレビの生中継で五山送り火を観ていて思い出したことを、<br />誰にも言わずに忘れてしまう前に<br />和の部屋に書かせていただくことにいたします。<br /><br />▼父は明治４０年京都生まれ、京都育ち。祖父は明治１０年京都生まれ、京都育ち。<br />もう、６０年ほど前のことです。<br /><br />▼あんたのおじいちゃんから、<br />『長岡の山（現 長岡京市）に「竹に鈴」という送り火が点ったのを若い頃、観たことがある。<br />観たことはないけど「妙法」より北の山に「イ」とか「ニ」とかも在ったらしい』と聞いたことがある。<br />『昔は、もっとたくさんの山で送り火が灯ってたらしいなぁ』<br /><br />▼こんな話、父から聞いただけで、書物で確認したわけでも、報道されていたわけでもありません。<br />これが本当に正しいのかわからないのですが、まんざら嘘ではないと思います。<br /><br />もし、詳しくご存知の方あればご教示の程お願いします。<br /><br />]]></content:encoded>
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    <item>
    <title>ヒロシマー本川小学校の童子像 　　蛍</title>
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    <description>ヒロシマー本川小学校の童子像 投稿者：蛍 投稿日：2023/04/07(Fri) 17:16 No.22 ▼平和資料館のある本川小学校の正門を入ると、ふいに目の前が、明るくなった。　桜は八分咲き。ヒヤシンスの花 ...</description>
    <pubDate>Mon, 10 Apr 2023 10:55:45 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[ヒロシマー本川小学校の童子像 <br />投稿者：蛍 投稿日：2023/04/07(Fri) 17:16 No.22 <br /><br /><br />▼平和資料館のある本川小学校の正門を入ると、ふいに目の前が、明るくなった。<br />　桜は八分咲き。ヒヤシンスの花は鈴なりに咲き、児童の名の書かれた鉢の苺は、白花を覗かせている。<br />新入生を三日後に迎える前庭の華やぎの一隅にその童子像はあった。<br />「あんなところにお地蔵さまがいる」と発せられた少年の声がなければ、気が付かないほど、ひっそりと立っていた。<br />「背に詩が刻まれています」案内の方に教られ覗き見ると文字が刻まれているのが読み取れた。<br /><br />▼―消えし児の還りて咲かむ海棠の花―<br />　広島の中洲を造った太田川は、相生橋から元安川と本川に分かれ海に注いでいる。<br />1945年8月6日、午前8時15分、原爆搭載機B29エノラ・ゲイの爆撃手は、<br />投下目標のT字型の相生橋を照準に捉えて、自動装置のスイッチを押し、<br />原爆を機体から放った。<br /><br />▼原子爆弾は上空580ｍで閃光を放って炸裂し、灼熱の火球を作った。<br />火球の中心温度はセ氏10000℃を超え、１秒後には、最大直径280ｍとなり、<br />周囲は4000℃近くに達した。<br /><br />▼爆心地からもっとも近い学校の本川国民学校（現本川小学校）の建物は、<br />瞬時に火を噴き、登校していた児童及び教職員は、即死に近い状態で全滅した。<br />―と記録されている。<br /><br />▼被爆死した児童の父が小学校を訪れた際に、当時の平川校長が、句を贈った。<br />昭和53年句を刻んだ童子像が安置され、追悼記念樹としてハナカイドウが植えられたと校史にはある。<br /><br />▼バラ科のハナカイドウは、画のように花柄が長く垂れることから垂糸海棠とも呼ばれている。<br />この春も本川小学校のハナカイドウは、花柄を伸ばし、付けた蕾を次々に咲かせていることだろう。<br />春になるとあたりまえに咲く、あたりまえでない有難さ。<br /><br />▼参考文献：「ヒロシマ散歩」植野浩著・「図録ヒロシマを世界に」広島平和記念資料館編集　<br />掲載誌：俳句同人誌『かつしか』第２０号２０１０年７・８月<br />掲載Webサイト：Honkawa Peace Museum <a href="http://www7.plala.or.jp/honkawa-pta/peace.htm" rel="external">http://www7.plala.or.jp/honkawa-pta/peace.htm</a>　<br />　　　　　　　平和資料館のページへ＞校内の資料＞ねむれる花～海棠～<br /><img src="https://www2.mellow-club.org/densho/uploads/photos/2353.jpg" align="left" alt="" />]]></content:encoded>
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    <item>
    <title>昭和終盤頃の女子社員の目から見た職場風景　　Rikkie</title>
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    <description>昭和終盤頃の女子社員の目から見た職場風景 投稿者：Rikkie 投稿日：2023/03/04(Sat) 14:34 No.20 ▼昭和60年（1985年）4月に、名古屋市の大学を卒業して、地元のある機械メーカーに就職した私は、 ...</description>
    <pubDate>Sun, 02 Apr 2023 00:25:27 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[昭和終盤頃の女子社員の目から見た職場風景 <br />投稿者：Rikkie 投稿日：2023/03/04(Sat) 14:34 No.20 <br /><br /><br />▼昭和60年（1985年）4月に、名古屋市の大学を卒業して、<br />地元のある機械メーカーに就職した私は、会社などの組織で「働く」ということを全く知らなかった。<br />卒業前までに働いた経験といえば、家庭教師を筆頭に、大学の学生課で見つけたアルバイトを少しやっただけである。<br /><br />だから、入社後、身に起こることは何もかも「働くって、そういうものなのだ」と思い込み、<br />疑問を感じるための知識や体験、ましてや器も度胸もない状態だった。<br /><br />▼以下に、当時、新人女子社員が体験した昭和終盤のある職場風景を話そう。<br />今は仕事からほぼ引退した身分で、知識や体験、器も度胸もたっぷりあるので、<br />多少皮肉交じりだが、うぶな自分の仕事に関する思い出を忘れないうちに綴っておこうと思う。<br /><br />▼まず、給料。就職した会社では、四大卒で男子は一律13万円、女子は11万円。2万円の差があったが、<br />この時代、性別で給料差があることは当たり前。<br />特に四大卒の女子を一年前に初めて行ったこの会社では、<br />21・22歳のこうした女子社員が高卒、短大卒よりも長く勤務するとは思われていなかったようで<br />（1，2年で『寿』退社するとみなされた）。<br />大学で学んだ知識を生かした仕事につかせてそれに見合う待遇を…という発想ではなかったようだ。<br />終身雇用制度のレールに乗った男子社員と、そうでない女子社員を同等に扱ってはいけないのだ…と、<br />当時の私は心のどこかで不満はあったものの、この男女差別を正当化していた。<br /><br />▼そして、お茶くみ。暗黙の了解であったが、<br />新入女子社員は、男性社員に将来自分の妻になれそうな人かどうかをチェックされる。<br />毎朝女子社員は、同じ部署の男性社員にコーヒーやお茶を<br />（極端な例では、各自のマイカップに、砂糖やミルクのお好みもちゃんと反映して）配る。<br />その時、ちょっとした雑談まで交わせるようであれば、得点も上がる。<br />私の母なぞは、私がちゃんと相手の目を見て優しい笑みを浮かべているか、心配していた。<br /><br />▼給湯室には、こんな看板もあったっけ。<br />『男性の皆さま、使い終わった湯呑は流しの中に置いてください。<br />女子社員、自分の湯飲みは自分で洗え。』今考えると、恐ろしい。<br />これは先輩の女子社員が掲げたものだった。<br />女子社員の間には『当番』と書かれた札が、毎週どこかの机上に置かれていた。<br />当番になると、仕事の合間を縫って、給湯室の流しにたまった湯呑やカップを洗いに行くのだ。<br />洗った湯呑などには最後にきちんと熱湯をかけて、早く乾燥するようにするのよ…と、<br />先輩の女子から、ありがたいアドバイスも頂いた。<br /><br />▼週一回の床掃除も忘れてはならない。<br />毎週金曜日の朝は、職場に備え付けられた箒と塵取りをもって、女子社員は所属部署の床を掃く。<br />工場、日本と海外支店、合わせて数千人の社員は雇えても、清掃業者は雇えなかったのだろうか？<br />]]></content:encoded>
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    <title>夢の超特急　　　蛍 </title>
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    <description>夢の超特急 投稿者：蛍 投稿日：2022/09/30▼今年2022（令和4）年は、1872（明治5）年10月14日に日本初の鉄道が新橋・横浜間に開業してから、１５０年周年ということです。　私の鉄道の思い出 ...</description>
    <pubDate>Tue, 04 Oct 2022 11:26:07 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[夢の超特急 投稿者：蛍 投稿日：2022/09/30<br /><br />▼今年2022（令和4）年は、1872（明治5）年10月14日に<br />日本初の鉄道が新橋・横浜間に開業してから、１５０年周年ということです。<br />　私の鉄道の思い出の筆頭は新幹線です。1964（昭和39）年、<br />新幹線開業直前の９月６日に、試乗券で東京駅から小田原を往復したのが始まりです。<br /><br />▼新幹線との写真ばかりが貼られたアルバムの１ページを見ると、<br />８歳だった私は、新幹線の乗車口の前で、姉と一張羅を着て写真におさまっています。<br />　母もこの試乗には、一緒だったのですが、カメラ撮影に徹していたのか写真には写っていません。<br />　姉も私も母の手作りのお出かけ用のワンピースを着ています。<br />　当時住んでいた家から近い渋谷の洋服生地屋「東亜」に母に付き合っていき、<br />選んだ生地が数日後にワンピースになっていました。<br />　その頃あまり写真を撮られるのが、好きでなかったけれど、この時ばかりは、<br />母の意気込みと周りの高揚感に圧倒されたのかポーズをとっています。<br /><br />▼読んでいた子供向けの雑誌では、新幹線の話題が持ち切りで<br />「夢の超特急」と書かれていました。<br />　車内に入った瞬間、そのカラフルなシートに「これが夢の超特急だわ」と<br />子供心に納得したことを記憶しています。<br />　「ただいま時速２００キロ」という車内アナウンスも今も耳に蘇ってきます。<br /><br />▼1964年から走った０系は2008年に引退しましたが、この０系の「ブライトブルー」は、<br />今も鼓舞される色となっています。<br /><br />ブライトブルー：<br />16進表記: #003F6C<br />RGB: (0, 63, 108)<br />マンセル値: 4.5PB 2.5/7.8<br />参考: 鉄道ジャーナル通巻217号 特集「鉄道車両 色彩の美学」<br /><br /><br /><a href="https://www2.mellow-club.org/densho/uploads/photos/2351.jpg" rel="external"><img src="https://www2.mellow-club.org/densho/uploads/thumbs/2351.jpg" align="left" alt="" /></a>]]></content:encoded>
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    <title>８月１５日、終戦（敗戦）の日に思う　　　こっこ亭</title>
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    <description>８月１５日、終戦（敗戦）の日に思うこっこ亭2022年8月15日 　 １９４５年８月１５日、終戦（敗戦）の日から７７年。　その日を５才７か月で迎えた私は、今や８２才。　戦争を語ることの ...</description>
    <pubDate>Sat, 20 Aug 2022 06:03:41 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[８月１５日、終戦（敗戦）の日に思う<br />こっこ亭<br />2022年8月15日  <br /><br /><br />　 １９４５年８月１５日、終戦（敗戦）の日から７７年。<br /><br />　その日を５才７か月で迎えた私は、今や８２才。<br /><br />　戦争を語ることのできる者として、生きている最後の世代だろう。<br /><br />　京都・伏見区の実家は今は無く、知らない人が済むアパートに変貌している。<br /><br />　戦時中、平屋の日本家屋の天井は、上からの命令ですべて天井板ははがされて屋根の裏側が丸見えだった。<br /><br />　風の強い日は、パラパラと屋根の土が落ちてきたりして気になったものだ。<br /><br />　「空襲警報発令！」の声で急いで防空壕に入り、恐れおののきながら、<br />敵機の襲来が行きすぎるのを待ったものだが、その時、焼夷弾や爆弾類<br />の投下があった時、屋根を貫通したものが、不発状態で天井に<br />引っ掛かったままで、後日爆発することがあっては大変なことになると<br />いうので、「天井板をはがせ！」という命令が下ったという。<br /><br />　わが家の場合、庭に作った“防空壕”があって、そこに何度も避難したが、<br />今から思えば、まともに爆弾類が落ちてきていたら、ひとたまりもなく、<br />中にいる私たちは「あの世」に旅立っていたことと思う。<br /><br />　今は、「核廃絶」を叫んでも世界のあちこちに保有する国がある。<br /><br />　「核シェルター」を持てる者なんてどれだけいるか？<br />　わずかな人たちだろう・・・それだって、生き延びられるかどうか・・・<br /><br />　その「核シェルター」で生き延びたとしても、あの「原爆投下」直後の広島や<br />長崎のような状態で、到底、生き延びていくことは不可能だろう。<br /><br />　「核」の使用は、間違いなく地球をほろぼしてしまうことになるだろう！<br /><br />　今日と言う日に、改めて「恒久世界平和」、「核の廃絶」を強く願う！]]></content:encoded>
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    <title>老舗のデパートでアルバイト　    マーチャン</title>
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    <description>老舗のデパートでアルバイト　 マーチャン2022年8月14日　高校生時代、年末休みは江戸時代から続いている老舗デパートでアルバイトをしていました。　なかなか躾の厳しい職場でした。特 ...</description>
    <pubDate>Sat, 20 Aug 2022 05:43:24 +0900</pubDate>
    <category>メロウ伝承館（体験・記録のデータベース）</category>
    <category>実録・個人の昭和史II（戦後復興期から高度経済成長期）</category>
    <content:encoded><![CDATA[老舗のデパートでアルバイト　    <br />マーチャン<br />2022年8月14日<br /><br />　高校生時代、年末休みは江戸時代から続いている老舗デパートでアルバイトをしていました。<br /><br />　なかなか躾の厳しい職場でした。特に「言葉遣い」の厳しさには閉口しましたが、いい勉強になりました。<br />　敬語・謙譲語の使いこなしだけでなく、業界用語、社内用語と覚えることがたくさんありました。<br />たとえ近くにお客様がおられなくても、言葉には気をつけなくてはいけない。<br />当時のデパートは「商品原価に夢を乗せて価格を決める場所」でした。<br />　「夢をぶち壊してはいけない」のです。「お手洗いにいってもいいですか」なんてとんでもない。<br />「お手洗い」は「遠方」、社員食堂は「喜左衛門さんのところ<br />（多分、江戸時代、丁稚さん・小僧さんの賄いを請け負っていたのが「喜左衛門さん」という方だったのでしょう）<br />行くと言いなさい」といわれていました。<br />　ただでさえ、混雑する年末、こんなことにまで気を遣わなくてはならない「お勤め」は厳しいもので<br />「今日は大晦日」という日には、ほっとしたものでした。<br /><br />　高校３年の年末のことです。「大入り袋」の代わりのつもりだったのでしょうか、<br />閉店後「大福もち」が２つずつ配られました。そして「アルバイトのうち、<br />高校３年生と大学４年生は店長室へ集まるように」との「お達し」がありました。<br /> やっと勤務時間が終わって帰れると思ったのに何の用かしら」と思いつつ店長室へ行きました。<br />我々が集合、整列させられますと「お偉方」ご一同が入ってこられました。<br /><br />　司会役らしい社員が「ただいまから、店長のご訓話があります。一同静粛に拝聴するように」と言います。<br />店員さんたちの間のうわさでは、当時の店長さんは大阪店での業績を評価されてご栄転して来られた<br />「こてこての大阪商人」とのこと。<br /><br />　店長は、まず、アルバイト学生一同に向かいに深く一礼しました。<br />　お話の内容は「みなさん、年末アルバイトご苦労さんでした。仕事ばかりやおまへん。<br />わたしら、時にはきついことも言わせてもらいました。無理もお願いしました。せやけど皆さん、<br />今から皆さんはアルバイト学生やおまへん。このデパートの大事なお客様です。<br />今まで言わせてもろたきつい言葉はみんな水に流してもろて、忘れてしもうてください。<br />そして、このさきは、たとえ鉛筆一本でも紙一枚でも、お買い物の際は当店へお越しください」<br />とおっしゃって深々と頭を下げられました。<br /> 「お偉方一同」もびっくりして深々と頭を下げておられました。<br /><br />　私にとっても学ぶことの多い「ご訓話」でした。７０年たった今も忘れません。]]></content:encoded>
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